伝統的な大字としての鵠沼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 09:00 UTC 版)
鵠沼郷の呼称は平安時代末期に現れるが、境川(当時の呼称は固瀬川)以西、引地川以東で、南辺は海岸線、北辺は江戸時代に整備される旧東海道(国道1号から1963年(昭和38年)藤沢バイパス開通により神奈川県道43号藤沢厚木線に降格)から市道中学通り線、東海道本線一本松踏切を経て藤沢駅南方を迂回し、境川「新川名橋」に至る線までとなるが、それ以前にもすでに重要な街道が鎌倉の大仏坂に通じており、それが安土桃山時代から江戸時代、さらに明治時代へ続く鵠沼村の村域の北の境界線となっていた。 明治3年(1870年)の鵠沼村戸口資料によると鵠沼村の各戸に1番から267番の戸別番号がつけられていた。実際の戸数は285戸が記録されている。 1873年(明治6年)5月1日に神奈川県は区・番組制施行、鵠沼村は第17大区第2小区となる。この際に28の小字に分けられ、引地橋東詰を1番地とし、南東に向かって7000番台までの番地の制定が行われた。 1908年(明治41年)4月1日に「藤沢大坂町」・「鵠沼村」・「明治村」が合併して「高座郡藤沢町」が誕生する。 1908年7月15日に元鵠沼村の区域に大字名を鵠沼と付して施行した。 1947年(昭和22年)4月1日に「鎌倉郡片瀬町」が藤沢市に合併した。 1964年(昭和39年)から数度にわたって鵠沼地区の住居表示が制定されたが、その際大字鵠沼であったところは「鵠沼○○」あるいは「○鵠沼」というように、必ず鵠沼の文字がつけられた。この住居表示制定の際、いくつかの調整が行われた。引地橋東詰にあった旧東海道鍵の手部分のショートカット北側が藤沢地区になった。これにより旧鵠沼1番地は鵠沼地区から外された。 1930年代に行われた引地川下流の河川改修により、直線化された引地川以西の部分は北部は辻堂太平台となり、南部は鵠沼海岸四丁目となった。 片瀬地区のうち、江ノ島電鉄以西の字桜小路は鵠沼藤が谷四丁目に含まれることになった。境川と江ノ島電鉄の間の字大源太は、地域住民の希望により片瀬地区に残った。 藤沢駅南口から神奈川県道32号藤沢鎌倉線以南の地域は、国道467号を境に東側が鵠沼東、西側が鵠沼石上一丁目となった。 2014年(平成26年)現在、住居表示未実施の大字の鵠沼としての区域が国道467号ミネベア前バス周辺に残っている。
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