アームストロング砲の開発
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「ウィリアム・アームストロング (初代アームストロング男爵)」の記事における「アームストロング砲の開発」の解説
「アームストロング砲」も参照 クリミア戦争が勃発すると、アームストロングはイギリス陸軍から機雷の設計を受注した。彼の設計は結果的に実用化されなかったものの、アームストロングが軍需産業に関わるきっかけとなった。同じクリミア戦争中の1854年に、アームストロングはイギリス陸軍向けの新型野砲の設計を始めた。当時のイギリス陸軍は、野砲の重量過大に困っており、それを知ったアームストロングは軽量で機動性の高い野砲の開発を思い立ったのである。同僚のジェームズ・レンデルとともに設計し、1855年に試作した5ポンド野砲は政府の検討会で好評を博した。そして、1858年には口径拡大した18ポンド野砲が陸軍に制式採用され、翌年にはイギリス海軍にも同じ構造の艦載砲が制式採用された。画期的な後装式のライフル砲、いわゆるアームストロング砲である。アームストロングはこの大砲で儲けることを好まず、特許を政府へと譲渡した。その功績で彼は陸軍省(War Department)のライフル砲造兵官に就任することになり、1859年には下級勲爵士(ナイトの一種)の称号とバス勲章コンパニオンを授けられ、ヴィクトリア女王への謁見の名誉を与えられた。 アームストロング砲は、利益相反との非難を避けるため、W.G.アームストロング社とは別の新設会社であるエルズウィック砲兵会社(Elswick Ordnance Company)で生産されることになった。エルズウィック砲兵会社はイギリス政府との専属契約を結んだ。このエルズウィック砲兵会社では、以後のアームストロングの重要な部下となるジョージ・レンデル(英語版)(ジェームズ・レンデルの子)が経営陣に参加し、アンドルー・ノーブル(英語版)が火砲の設計技術者として採用されている。陸軍省に任官したアームストロングは、ウリッチ王立造兵廠の主任として設備の近代化に取り組み、ここでもアームストロング砲の生産を可能とした。 しかし、アームストロング砲は、保守的な陸軍軍人やジョセフ・ホイットワースに代表されるライバル企業から、操作が難しい、価格が高い、危険であるなどの批判を受けた。戦争終結による需要減少もあって、1862年にイギリス政府はエルズウィック砲兵会社への注文打ち切りを内定し、以後の製造はウリッチ王立造兵廠のみで行われることになった。これを知らされたアームストロングは、1863年2月に陸軍省造兵官を辞任した。エルズウィック砲兵会社は倒産の危機にさらされたが、イギリス軍との専属契約が解除され、アメリカ南北戦争での両陣営への兵器輸出で生き延びることができた。なお、アームストロング砲は1863年8月の薩英戦争で腔発事故が多発したこともあり、1864年にイギリス軍向けの調達中止、イギリス海軍の前装砲への回帰が起きている。この事故問題がアームストロングの退官の原因と言われることがあるが、退官の方が先であり誤りである。
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