成果を挙げる改革と出世
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調所が主導する改革は徐々に成果を挙げていく。責任者に就任した当初は改革に反発して調所を憎む者も少なくなかったが、徐々に人心も落ち着いていき、危機的な状況に遭った藩財政も持ち直して臨時の出費にも対応できるようになった。 改革の遂行に伴い調所の地位も上がった。文政11年(1828年)10月に50石、翌文政12年(1829年)5月には100石と立て続けに加増され、文政13年(1830年)1月には側用人兼任の上、御家老座敷込みへの出勤を命じられ、駕籠ないし乗馬での登城が認められる。 その後調所の出世はさらに加速する。天保2年(1831年)12月には大番頭に昇格し、350石の加増を受けた。翌天保3年(1832年)1月、役料を若年寄格の300石30人賄料となり、2月には大目付格、続いて家格も寄合に昇進する。天保3年(1833年)閏11月には家老格、役料1000石となって対外的には家老を名乗るよう命じられた。天保4年(1833年)3月と天保7年(1836年)3月には500石の加増がなされ、天保9年(1838年)8月には正式に家老、側詰兼務となった。 後に藩主・島津斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任し、小林郷地頭や鹿屋郷地頭、佐多郷地頭を兼務する。藩が琉球や清と行っていた密貿易にも携わる。天保3年(1832年)には家老格に、天保9年(1838年)には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。弘化3年7月27日には志布志郷地頭となり、死ぬまで兼職する。 当時、薩摩藩は500万両の借金を抱えて財政破綻寸前となっていた。これに対して広郷は商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いにし、さらに行政改革、農政改革、財政改革を行った。これにより天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に200万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。この改革の取組みとして、琉球を通じた清との密貿易、大島・徳之島などから取れる砂糖の生産において、大坂の砂糖問屋の関与の排除を図った専売制や、商品作物の開発などがあった。 やがて、斉興の後継を巡る島津斉彬と島津久光による争いがお家騒動(後のお由羅騒動)に発展すると、広郷は斉興・久光派に与する。これは、聡明だがかつての重豪に似た蘭癖の斉彬が藩主になることで再び財政が悪化するのを懸念してのことであると言われている。 斉彬は幕府老中・阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易(藩直轄地の坊津や琉球などを拠点としたご禁制品の中継貿易)に関する情報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図る。 嘉永元年(1848年)、調所が江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問される。同年12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死、享年73。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺とも言われる。 死後、広郷の遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられた。葬所は養父清悦と同じ江戸芝の泉谷山大円寺。法号は全機院殿敷績顕功大居士。現在の墓所は鹿児島市内の福昌寺跡。
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