成果を挙げる改革と出世とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 成果を挙げる改革と出世の意味・解説 

成果を挙げる改革と出世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 08:25 UTC 版)

調所広郷」の記事における「成果を挙げる改革と出世」の解説

調所主導する改革徐々に成果挙げていく。責任者就任した当初改革反発して調所を憎む者も少なくなかったが、徐々に人心落ち着いていき、危機的な状況遭った財政持ち直して臨時出費にも対応できるようになった改革遂行に伴い調所地位上がった文政11年1828年10月50石、翌文政12年1829年5月には100石と立て続け加増され、文政13年1830年1月には側用人兼任の上御家老座敷込みへの出勤命じられ駕籠ないし乗馬での登城認められるその後調所出世はさらに加速する天保2年1831年12月には大番頭昇格し350石の加増受けた。翌天保3年1832年1月役料若年寄格の30030人賄料となり、2月には大目付格、続いて家格寄合昇進する天保3年1833年)閏11月には家老格役料1000となって対外的には家老名乗るよう命じられた。天保4年1833年3月天保7年1836年3月には500石の加増がなされ、天保9年1838年8月には正式に家老、側詰兼務となった。 後に藩主島津斉興仕え使番町奉行などを歴任し小林郷地頭や鹿屋郷地頭、佐多郷地頭を兼務する。藩が琉球や清と行っていた密貿易にも携わる天保3年1832年)には家老格に、天保9年1838年)には家老出世し、藩の財政農政軍制改革取り組んだ弘化3年7月27日には志布志郷地頭となり、死ぬまで兼職する。 当時薩摩藩500万両借金抱えて財政破綻寸前となっていた。これに対して広郷商人脅迫して借金無利子250年分割払いにし、さらに行政改革農政改革財政改革行った。これにより天保11年1840年)には薩摩藩金蔵200万両蓄え出来程にまで財政回復した。この改革取組みとして、琉球通じた清との密貿易大島徳之島などから取れ砂糖生産において、大坂砂糖問屋関与排除図った専売制や、商品作物開発などがあった。 やがて、斉興の後継を巡る島津斉彬島津久光による争いお家騒動(後のお由羅騒動)に発展すると、広郷は斉興・久光派に与する。これは、聡明だがかつての重豪に似た蘭癖の斉彬が藩主になることで再び財政悪化するのを懸念してのことであると言われている。 斉彬は幕府老中阿部正弘らと協力し薩摩藩密貿易(藩直轄地坊津琉球などを拠点としたご禁制品の中継貿易に関する情報幕府流し、斉興、調所らの失脚を図る。 嘉永元年1848年)、調所江戸出仕した際、阿部密貿易の件を糾問される。同年12月薩摩藩上屋敷藩邸にて急死享年73死因責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺とも言われる死後広郷遺族は斉彬によって家禄屋敷召し上げられ家格下げられた。葬所は養父清悦と同じ江戸泉谷山大円寺。法号全機院殿敷績顕功大居士現在の墓所鹿児島市内福昌寺跡

※この「成果を挙げる改革と出世」の解説は、「調所広郷」の解説の一部です。
「成果を挙げる改革と出世」を含む「調所広郷」の記事については、「調所広郷」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「成果を挙げる改革と出世」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「成果を挙げる改革と出世」の関連用語

成果を挙げる改革と出世のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



成果を挙げる改革と出世のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの調所広郷 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS