徳島水力電気の合併
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三重県の電気事業者を統合して発足した三重合同電気は、発足翌年の1923年(大正12年)10月に徳島県の電気事業者徳島水力電気株式会社を合併、三重県から遠く離れた徳島県および兵庫県淡路地方(淡路島)に進出した。 徳島水力電気の事業の発端は、1894年(明治27年)に設立された徳島電灯株式会社にある。翌1895年(明治28年)1月、徳島電灯は徳島市内に火力発電所を設置し、市内への電灯供給を開始した。その後明治末期になって日本各地で水力発電が行われるようになると、徳島でも水力開発を行うべく徳島水力電気が設立されるに至る。徳島水力電気は地元の藍商後藤田千一らの発起により1908年(明治41年)2月、資本金30万円で設立。那賀川上流に桜谷発電所を建設し、1910年(明治43年)より送電を開始して徳島市内の変電所から徳島市などへと供給を始めた。その結果先発の徳島電灯との競争が生じるが、翌1911年(明治44年)に徳島電灯は徳島水力電気に吸収された。 徳島水力電気は徳島電灯以外にも電気事業者3社およびガス事業者1社を順次合併するなど事業を拡大し、1921年6月の時点では徳島県東部を中心に徳島市および名東郡・名西郡・麻植郡・板野郡・阿波郡・勝浦郡・那賀郡・美馬郡・三好郡の計54町村に供給区域を広げていた。代表者は専務取締役の井原外助で、川北栄夫率いる電機メーカー川北電気企業社の系列であった。1921年度の供給実績は、電灯供給11万3823灯、電力供給1,465.7kWで、その電灯供給灯数は四国地方の事業者の中で最多である。さらに1921年から翌年にかけて淡路島の電気事業者計3社を合併、淡路島の大部分を供給区域に追加した。 事業を拡大した徳島水力電気であったが、同社は供給力不足という問題を抱えていた。発電所の新増設を順次行い解消に努めたものの、徳島県当局や逓信大臣から改善命令を受けるほどであった。このため1922年に祖谷川水力電気を合併し、吉野川水系祖谷川での電源開発に着手した。一方で経営面では好成績を上げており、資本金1225万円(払込資本金669万円)に対して毎半期約45万円の利益を計上、年率12%の配当を続けていた。同時期の三重合同電気は、資本金1415万円(払込資本金約1300万円)に対して毎半期6-70万円の利益で年率9%の配当であったから、三重合同電気よりも徳島水力電気の方が業績では優っていた。 地理的に離れた三重合同電気と徳島水力電気の2社を結びつけたのは川北栄夫である。川北は三重合同電気の取締役であるとともに、徳島水力電気の大株主であった。川北の斡旋によって合併の計画は進められ、一時期徳島側の重役間に内紛を生じたが、最終的に妥協が成立。1923年10月20日付で合併が成立し、三重合同電気は資本金を1347万9950円増加して2762万9950円とした。三重県内に偏在する一地方会社ではなく、東海と南海を横断する大会社として中央(大阪)に拠点を据えるのが今後の社業拡大や資金調達の便から得策、ということでの合併であった。ただし本社を三重県津市から大阪市へと移す本社移転問題は、その後営業の中枢を大阪へと移しただけで沙汰止みとなった。
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