強運のエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 10:06 UTC 版)
西塚は調教師としてもコマミノル(オークス)やミスカブラヤ(エリザベス女王杯)などで大競走制覇の実績を残しているが、日本の事件・事故史に残る様々な災難をあわやのところで逃れてきたことから、「厄除大師」「ミスター強運」などの異名を持つほどであった。テレビ番組『ザ!世界仰天ニュース』でも取り上げられたことがある。 関東大震災 1923年9月1日、横浜の奉公先で関東大震災に遭遇。いつものように向かいの瀬戸物屋の商品がカチャカチャとぶつかり合う光景(西塚本人は「カタカタショー」と呼んでいた)を眺めようと道路に飛び出した途端にパン屋の1階部分が完全に倒壊し、すんでのところで難を逃れた。なお、横浜は直後に猛火で焼け野原となっており、脱出できなければ焼死必至の状況だった。 洞爺丸事故 1954年9月26日、移動のため函館から青函連絡船4便に乗船予定だった。切符も持っていたが、知人に誘われて湯の川温泉での宴会に出席する。ところが宴会が深夜まで続いてしまい席を立ちそびれ、その4便洞爺丸に乗り遅れた。洞爺丸は出港した後台風15号の強風によって七重浜沖で転覆、死者・行方不明者あわせて1139人という大惨事になったが、西塚は遭難を免れた。 ばんだい号墜落事故 1971年7月3日、同僚で友人だった柏谷富衛調教師と共に東亜国内航空63便(函館行)に搭乗予定であり、車で待ち合わせ場所の丘珠空港へ向かった。しかし直前に知人と立ち寄った料理屋で女将が料理を失敗(白米を炊き忘れる)するというトラブルに巻き込まれて出発が遅れてしまい、「これは(飛行機に)間に合いそうにないな」と、宿泊する宿のことを考えていた。それでも10分遅れで丘珠空港に到着した際、偶然にも飛行機はまだ離陸していなかった。西塚は最初は搭乗しようとしたが(チケットは二人分、柏谷が持っていた)、航空会社が既にキャンセル待ちの人を乗せてしまっていたのを見て「一度乗せてあげた人を降ろしたらかわいそうだから」と搭乗を辞退。「札幌で一泊しないか」と柏谷を誘うも、カウンターでずっと待ち続けていた柏谷は「俺はお前ほど暇じゃねぇんだ!」と怒り(この時、自厩舎の主な管理馬に天皇賞馬リキエイカンがおり、柏谷の仕事が忙しいのは事実だった)、一人で乗り込んでしまった。ところがその「ばんだい号」は函館を前にして横津岳に墜落、柏谷を含む乗員・乗客全員が死亡する大惨事となった。西塚は難を逃れたが心は晴れることはなく、「あの時、柏谷をもっと強引に引き止めておけばよかった…」と後悔の念を晩年まで持っていた。 ホテルニュージャパン火災 1982年2月7日夜、西塚は東京の常宿だったホテルニュージャパンの9階にチェックインし、その後友人4・5人と新宿で飲み明かす。飲み終わったあとにふと懇意にしていた女性のバーに寄ることを思い付き、明け方までそこで過ごした。明け方、永田町のホテルに戻ると大火災が発生しており、結果的に死者33人を出す大惨事となっていた。もしもバーに寄らずにまっすぐホテルに戻っていたとすると、寝静まった頃合に火災が発生していた計算になる。出火場所は西塚がチェックインしていたのと同じ9階だった。 なお、関東大震災以外はすべて現地の愛人宅で過ごしていたために難を逃れたというのが真実であるとする、親族や牧場オーナーの証言も死後に伝えられている。もっとも、この様に災難に対しては強運を持つ人物ではあったが、いざ本業の競馬となると、ダービー馬カブラヤオーについて、生産牧場である十勝育成牧場の共同経営者であったにも関わらず、馬体のみすぼらしさから、「馬房が一杯で空きがありませんので勘弁してください」という理由をつけて預託引き受けを断ってしまったというエピソードがある。
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