建設への経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 14:12 UTC 版)
韓国の首都機能を、ソウル特別市から韓国中西部に移転する構想は、1970年代からあった。朴正煕大統領は1976年に、臨時首都候補地を内密に調査するようにとの指示を出した。条件は大田市北方、錦江から可能な限り近い場所。規模は最終的に人口50万人程度といったものだった。そして選定されたのが現在の世宗市付近だった。ただし現在の政府世宗庁舎は、1976年に選んだ場所より錦江からやや遠い。大統領官邸、国会、大法院などもすべて移転する計画だった。 この臨時首都移転計画は安保上の問題(ソウルは北朝鮮にかなり距離が近く、通常兵器でも射程範囲内となる)と首都の人口過密解消が目的だった。北朝鮮が軍事境界線からFROG(射程距離70km)を発射しても射程圏を少し外れる地域であることも、候補地選定の条件だった。しかし首都移転の予想費用は5兆ウォン、実際に着工すれば3~4倍になる可能性があり、当時の韓国にはそのような余裕がないと判断された。 盧武鉉は2002年に首都移転を公約として大統領に当選し、首都移転論が再び浮上した。しかし、2004年10月に出された憲法裁判所の首都移転違憲判決によって遷都計画は頓挫。最終的には政府行政機関の一部を移転するに留まり、行政中心複合都市として建設が進められることになった。 盧武鉉政権で推進された世宗市事業は首都圏を基盤とする政治勢力と保守系マスコミによって猛反対された。そのため2008年に李明博政権に交代すると、国会では世宗市の性格と範囲を規定した特別法が「漂流」するようになる。政府も移転機関変更告示をしなかった。 2009年9月3日に鄭雲燦首相(当時)が、「世宗市計画は非効率的で原案通りの施行は困難」と表明したことをきっかけに、李大統領や鄭夢準ハンナラ党代表(当時)も計画修正を打ち出し、与党内部の反対意見を抱えながら11月27日には李大統領が計画修正を明言。2010年1月11日に政府は行政機関移転計画を全面白紙化し、企業や研究機関を新たに誘致して教育・科学中心の経済都市を目指す世宗市計画の修正案を発表した。こうした動きに対し、前政権与党の流れを汲む民主党や忠清南道に強い支持を有する自由先進党(以下、先進党)のみならず、与党ハンナラ党内でも朴槿恵を支持する親朴派を中心に当初の計画案を推進すべきであるとの声が強く、激しく対立していた。6月29日の国会本会議で世宗市整備計画修正案は親朴派議員による造反によって賛成105票、反対164票、棄権6で否決された。こうして世宗市への行政機関移転計画は原案通り推進される運びとなった。 2009年9月までに土地買収に5兆2000億ウォンが投入された。
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