島津久竹 (宮之城家)とは? わかりやすく解説

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島津久竹 (宮之城家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/19 00:05 UTC 版)

 
島津久竹
時代 江戸時代
生誕 寛永12年11月28日1636年1月6日
死没 元禄6年10月16日1693年11月13日
改名 久胤(初名)→久竹
別名 図書(通称)
墓所 鹿児島県宮之城町宗功寺
主君 島津光久
薩摩国薩摩藩
氏族 島津氏
父母 父:島津久通、母:島津忠倍の娘
兄弟 久武、久竹
室:島津家久の娘
久洪
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島津 久竹(しまづ ひさたけ)は、薩摩国薩摩藩家老宮之城島津家第5代。

家系

宮之城島津家家は、島津忠良の三男尚久に始まり、代々の当主の通称が「図書」で、忠長以降に薩摩国宮之城を領した。

略歴

寛永12年(1636年)島津家家臣島津久通の次男として生まれる。母は大伯父忠倍の娘。父久通は藩主光久に仕え、藩の殖産興業に功績のある家老だった。

慶安元年(1648年)藩主光久の供をして江戸に下り、4月に将軍徳川家光に拝謁する。明暦3年(1657年)8月、藩主光久の妹と結婚。[1]

寛文12年(1672年)父久通が隠居し、家督を相続し家老となる。記録方総監として島津家の系譜の編纂に当たった。延宝9年(1681年)5月、将軍徳川綱吉に拝謁。[1]

元禄6年(1693年)10月16日、死去。享年58。

人物

儒学者愛甲喜春に学び、次いで林春斎の門人となる。を能くした。延宝6年(1678年)に師春斎の銘文が刻まれた「祖先世功碑」を建立した。

出典

  1. ^ a b 平田四郎兵衛、明治29年、P9

参考文献




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