富山電灯の設立と開業とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 富山電灯の設立と開業の意味・解説 

富山電灯の設立と開業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:26 UTC 版)

日本海電気」の記事における「富山電灯の設立と開業」の解説

1894年明治27年5月富山市内の日枝神社にあった富山県物産陳列場において「富山市勧業博覧会」という博覧会開催された。このとき、市内の密田孝吉らが費用545円を寄付して東京電灯より技師招きアーク灯1基と多数白熱灯会場点灯した。これが一時的ではあるが富山市最初電灯とされる当時富山では照明といえば行灯主流で、石油ランプ利用もわずかという時代であったため、明る電灯多数見物客集めたという。 日清戦争後時期になると地元選出衆議院議員薬種商金岡又左衛門によって電灯事業計画具体化していく。密田孝吉の調査発案によって神通川から引水する大久保用水にて水力発電実施する計画決められ1896年明治29年3月には技術者招いて具体的な計画定められた。計画集った発起人富山地場産業である売薬業関係を中心した市内有力者たちで、金岡をはじめ、薬種商中田清兵衛売薬商密田林・密田兵(孝吉の父)、呉服商牧野平五郎関野善次郎などが名を連ねる1897年明治30年11月23日に「富山電灯株式会社」として創立総会開かれ、翌1898年明治31年2月25日農商務省より会社設立免許下りた。こうして発足した富山電灯資本金10万円。初代社長には金岡又左衛門就き支配人となった密田孝吉とともに会社取り仕切った株主はほとんどが富山市内か隣の上新川郡居住者であるという地元資本会社であった発足後1898年9月ごろに着工発電所市街地の南、上新川郡大久保村大字(現・富山市塩)に建設された。この大久保発電所大久保用水より取水し、流水崖下落として発電神通川本流放水するという水路トンネルのない簡単なもので、出力120キロワット発電所の設計監督大阪電灯技師木村駒吉依頼したことから、同社国内一手専売を持つ米国ゼネラル・エレクトリック (GE) 製の三相交流発電機備えた発電所からは市内星井町本社配電所まで10キロメートル余り送電線架設され配電所から需要家配電するという体制造られた。そして1899年明治32年4月2日より富山電灯開業した開業後の1899年4月25日開業祝賀会料亭八清開かれた会場には電動精米機あやつり人形電気模型など披露され中でも電車模型好評であったという。電灯数は月末に957灯となり、3か月後の7月には1510灯まで達して発電力の3分の2消化していた。取り付け商店多く電灯がないと暗く貧弱に見えるので競って点灯申し込んだという。ところが開業から4か月後の8月12日夜、富山市内の4割を焼失するという大火発生し富山電灯配電設備需要家大半失って39966円の損害被った。この損害については資本金10万円から6万円減資して対処する市街地復興とともに復旧進めて年末には1300灯にまで回復し翌年には2000灯超となって初めての配当が可能となった1903年明治36年7月には最初増資実施し資本金を9万円とした。

※この「富山電灯の設立と開業」の解説は、「日本海電気」の解説の一部です。
「富山電灯の設立と開業」を含む「日本海電気」の記事については、「日本海電気」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「富山電灯の設立と開業」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「富山電灯の設立と開業」の関連用語

富山電灯の設立と開業のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



富山電灯の設立と開業のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日本海電気 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS