富山電灯の設立と開業
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1894年(明治27年)5月、富山市内の日枝神社横にあった富山県物産陳列場において「富山市設勧業博覧会」という博覧会が開催された。このとき、市内の密田孝吉らが費用545円を寄付して東京電灯より技師を招き、アーク灯1基と多数の白熱灯を会場で点灯した。これが一時的ではあるが富山市で最初の電灯とされる。当時の富山では照明といえば行灯が主流で、石油ランプの利用もわずかという時代であったため、明るい電灯は多数の見物客を集めたという。 日清戦争後の時期になると地元選出の衆議院議員で薬種商の金岡又左衛門によって電灯事業計画が具体化していく。密田孝吉の調査・発案によって神通川から引水する大久保用水にて水力発電を実施する計画が決められ、1896年(明治29年)3月には技術者を招いて具体的な計画が定められた。計画に集った発起人は富山の地場産業である売薬業関係を中心した市内有力者たちで、金岡をはじめ、薬種商中田清兵衛、売薬商密田林蔵・密田兵蔵(孝吉の父)、呉服商牧野平五郎・関野善次郎などが名を連ねる。1897年(明治30年)11月23日に「富山電灯株式会社」として創立総会が開かれ、翌1898年(明治31年)2月25日に農商務省より会社設立の免許が下りた。こうして発足した富山電灯の資本金は10万円。初代社長には金岡又左衛門が就き、支配人となった密田孝吉とともに会社を取り仕切った。株主はほとんどが富山市内か隣の上新川郡居住者であるという地元資本の会社であった。 発足後、1898年9月ごろに着工。発電所は市街地の南、上新川郡大久保村大字塩村(現・富山市塩)に建設された。この大久保発電所は大久保用水より取水し、流水を崖下に落として発電、神通川本流に放水するという水路トンネルのない簡単なもので、出力は120キロワット。発電所の設計・監督を大阪電灯技師の木村駒吉に依頼したことから、同社が国内一手専売権を持つ米国ゼネラル・エレクトリック (GE) 製の三相交流発電機を備えた。発電所からは市内星井町の本社兼配電所まで10キロメートル余りの送電線が架設され、配電所から需要家へ配電するという体制が造られた。そして1899年(明治32年)4月2日より富山電灯は開業した。 開業後の1899年4月25日、開業祝賀会が料亭八清楼で開かれた。会場には電動精米機やあやつり人形の電気模型などが披露され、中でも電車の模型が好評であったという。電灯数は月末に957灯となり、3か月後の7月には1510灯まで達して発電力の3分の2を消化していた。取り付けは商店が多く、電灯がないと暗く貧弱に見えるので競って点灯を申し込んだという。ところが開業から4か月後の8月12日夜、富山市内の4割を焼失するという大火が発生し、富山電灯は配電設備と需要家の大半を失って3万9966円の損害を被った。この損害については資本金を10万円から6万円に減資して対処する。市街地の復興とともに復旧を進めて年末には1300灯にまで回復し、翌年には2000灯超となって初めての配当が可能となった。1903年(明治36年)7月には最初の増資を実施し、資本金を9万円とした。
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