富山駅の建設工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/14 09:31 UTC 版)
こうした富山市や地元経済界の主張によって富山駅の移転先は牛島村と愛宕村の間の地に決定され、富山市は1907年(明治40年)1月24日に27017坪の敷地を駅建設のための用地として寄附した。この頃の牛島は前述の馳越工事によって神通川本流と馳越線に挟まれた中洲のような状態になっており、停車場建設に必要な土盛りを行うための土砂調達により附近の田畑が掘り下げられることとなった。当時の新聞は次のように富山駅建設の状況を報道している。 此停車場の敷地は四万坪で其半分は寄附に係るものである、此四万坪の敷地に高さ平均十一尺の土を盛り其景は実に四万二千立坪の多きに達してゐる、本工事は第一工区に属して居つて昨年四月工事に着手し本年七月落成を告げた、本工事に要したる土は附近の田圃より掘上げたもので軽便軌条を以て運搬したのである、而して工事の最も盛んであつた時は軌条の長さ四哩以上に達しトロツコは百七十九輌に及んだ、実に近来稀に見る土工であつた
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