家族の行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 16:04 UTC 版)
「ベンジャミン・バサースト (外交官)」の記事における「家族の行動」の解説
事件の捜査は行われたものの、ペルレベルクでは大事にはならなかった。というのも、このときのプロイセン王国は混乱の極みであり、盗賊、フランスのはぐれ兵士、ドイツの革命家などが横行していて、殺人や窃盗も頻繁に起こった。そのため、商人1人が失踪した程度ではほとんど注目されなかった。 本国にいたバサーストの家族は1809年7月の手紙を最後にバサーストからの連絡がない一方、オーストリア軍がヴァグラムの戦い(1809年7月初)で大敗したという報せは届いていたため、バサーストが帰国の道中にあるのは家族にとっても明らかだった。しかし、9月から11月にかけてバサーストの音信が全くなく、バサーストの妻フィリダは報せを少しでも早く聞けるようバサーストの父の邸宅に引っ越した。 バサースト失踪の報せは事件から数週間後にようやくイギリスに届いた。報せを受けた外務大臣の初代ウェルズリー侯爵リチャード・ウェルズリーはバサーストの父を自邸アプスリー・ハウスに呼び出して、失踪の報せを告げた。報せを聞いたフィリダはバサースト家の友人でもあるドイツ人冒険家ハインリヒ・レントゲン(英語版)に捜査を依頼した。 同時期にはバサーストの失踪がイギリスの大衆にも知られるようになり、『ザ・タイムズ』紙が1810年1月20日の紙面で「フランス近くのとある町でフランスの兵士に捕らえられたとされる。その後は知られていない」(At some town near the French territories he was seized, as is supposed, by a party of French soldiers. What happened afterwards is not accurately known)と報じ、12月16日に見つかったズボンについても報じた。タイムズは情報源を明らかにしなかったが、『ザ・スペクテイター(英語版)』1862年9月20日号ではタイムズが事件をかなり目立つ形で記事にしたことから、公式の情報に基づくものであると判断している。フランス政府はこの報道に怒り、官報の『ル・モニトゥール・ユニヴェルセル』1810年1月29日号でバサーストが精神錯乱の末自殺したと主張、「精神異常がよくみられるのはイギリスの外交部門だけ」との皮肉をもって返答した。一方、ドイツの新聞では大きく報じられず、イギリス政府も公式見解を出さず、有用な情報に対する懸賞金を出すに留まった。 フィリダは最初夫がフランスに捕らえられて投獄されたか殺害されたと考え、前者の可能性に賭けて1月27日にナポレオンへの手紙を書き、バサーストを釈放するか自身をバサーストと一緒に投獄することを求めたが、わずか2日後の『ル・モニトゥール・ユニヴェルセル』で投獄が公式に否定された。そして、1810年5月20日にはついにイギリス政府の無関心に怒り、ドイツに赴いて夫を捜すことを決意、6月8日に父とメイドを扮する知人、そして弟ジョージとともにハリッジ(英語版)から出発した。フィリダは出発の前にナポレオンへの手紙を書き、パスポート発給を求めたが、返答を待たずに出発、パスポートが届いた場合はハンブルクに転送するよう手配した。ナポレオンはパスポート発給を許可した。 一行は7月4日にベルリンに到着、そこでヴェッセンベルクに会い、ヴェッセンベルクの仲介でフランス大使アントワーヌ・マリー・フィリップ・ド・サン=マルサン(フランス語版)にも会った。サン=マルサンはパスポートの発給許可をフィリダに伝え、フランス外務大臣カドーレ公爵ジャン=バティスト・ノンペール・ド・シャンパニー(英語版)が一行に助力を与えるよう命じていたことも伝えた。ヴェッセンベルクがプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世から助力を与える許可が下りたことを伝えると、フィリダはクラウゼとヒルベルトをウィーンからベルリンに呼び戻すことを求めた。フィリダは2人の帰りを待たず、レントゲンと合流してペルレベルクに向かい、そこで1809年12月16日に見つかったズボンを見せられて、夫のものであると認めた。ズボンが見つかったことで誘拐の可能性が高まったため、フィリダ一行は500ターラーの懸賞金を出して情報を求めたが、1か月経ても有用な情報が出なかった。懸賞金を出す一方、フィリダ一行は7月25日にベルリンに戻り、クラウゼとヒルベルトの証言を聞いた。 一行は続いてポツダム、フランクフルト・アム・マインを経て9月2日にパリに到着、ナポレオン・ボナパルトへの謁見を求めた。ナポレオンは謁見に応じなかったが、外務大臣カドーレから帰国のためのパスポート発給と今後フランスに戻る許可を得た。一行は9月18日にパリから出発、モルレーでプリマス行きの船に乗ってソルタッシュ(英語版)で下船した。こうして、フィリダ一行による4か月間の調査が終わったが、さしたる成果は上がらなかった。 バサーストの遺体か事件に関する情報を求めて、イギリス政府が1,000ポンドの懸賞金を出したほか、遺族も1,000ポンドの懸賞金を出し、事件に興味を持ったプロイセン王子フリードリヒもフリードリヒ・ドー(英語版)(プロイセンの金貨)100枚の懸賞金を出したが、有用な情報は出てこなかった。
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