完全なる開花
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 23:50 UTC 版)
「フレデリック・ディーリアス」の記事における「完全なる開花」の解説
「ブリッグの定期市」(1907年)はディーリアスのスタイルの完成を知らせる作品である。ここでは彼が音の詩人でるという事実を確固たるものにする小規模なオーケストラが初めて使用されており、ワーグナーやグリーグからの影響はほとんど完全に消え去っている。数年のうちに続く作品は「夏の庭で」(1908年)、「生命の踊り」(1911年)、「川面の夏の夜」(1911年)、「春初めてのカッコウの声を聴いて」(1912年)である。批評家のR.W.S.メンドル(Mendl)はこれらの作品について、以前の型どおりの音詩には欠けていた統合性と形態を有する「見事な自然観察」であると記述した。これらの作品はイギリスの演奏会では常連の演目となり、そこに通うイギリスの聴衆の頭にディーリアスの音楽の性格を確立する助けとなった。しかし、アーネスト・ニューマン(英語版)によると、これらの作品に注目が集まり彼のより幅広い作品群が無視される結果になったことで、ディーリアスにとっては利益となったのと同等に打撃にもなったという。これらの作品では、10以上のパートに分割された弦楽器に対して木管楽器の旋律や装飾が合いの手を入れるという、ディーリアスの成熟した管弦楽の典型的な響きが聞かれる。「北国のスケッチ」(1913年-1914年)では、ディーリアスは弦楽合奏を12パートに分けており、ハープ、ホルン、クラリネット、ファゴットが生命の途絶えた冬の情景を喚起させる。ペインの見方ではこの「北国のスケッチ」がディーリアスの作曲技法の頂点を築くものであるが、フェンビーはさらに後の交響詩「おとぎ話」(1917年)にその栄誉を譲ると考えている。 この時期のディーリアスは、純粋な管弦楽曲だけを作曲していたわけではない。彼は最後となるオペラ「フェニモアとゲルダ(英語版)」(1908年-1910年)を書いている。この曲は「村のロメオとジュリエット」同様に絵画的な形式となっており、彼の円熟したスタイルを示している。この時期の合唱曲には有名な「アラベスク」(1911年)と「高い丘の歌」(1911年)があり、これらは関係のない和音を並置するという方法で書かれており、ディーリアス作品の中でも最も急進的なものとなっている。後者は完全に歌詞のない歌曲となっており、ウォーロックによれば現存する合唱曲の中でも最難曲に含まれるという。1915年以降、ディーリアスの興味は修練期以来ほとんど手をつけていなかったソナタ、室内楽、協奏曲という伝統的形式に向かうことになる。これらの作品の中から、ペインは2つの作品に焦点を当てている。不慣れなジャンルにおいても、ディーリアスがいかに自らのスタイルに忠実であり続けたかを示す「ヴァイオリン協奏曲」(1916年)と、慣れ親しんだ管弦楽の味わいを用いずに、メロディーによって成功を収めた「チェロソナタ」(1917年)である。しかし、カーダスはディーリアスの室内楽曲や協奏曲は大部分が失敗作であるとの評価を下している。ペインによれば、1917年以降は病魔に蝕まれたことでディーリアスの創作は全体的に量、質ともに低下していく。しかし、ペインは付随音楽「ハッサン」(1920年-1923年)を非難の的から外し、この作品にはディーリアスの最高の仕事が含まれると考えている。
※この「完全なる開花」の解説は、「フレデリック・ディーリアス」の解説の一部です。
「完全なる開花」を含む「フレデリック・ディーリアス」の記事については、「フレデリック・ディーリアス」の概要を参照ください。
- 完全なる開花のページへのリンク