学習と初期キャリア
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「カール・ニールセン」の記事における「学習と初期キャリア」の解説
1881年、ヴァイオリン演奏により真剣に取り組み始めたニールセンは、聖クヌーズ修道院(英語版)の会堂管理人であったカール・ラースン(Carl Larsen)の下で私的に学ぶようになる。この時期にどれくらいの作品が作曲されたのかはわかっていないが、彼の自伝からは金管楽器のための三重奏曲、四重奏曲などが書かれていたこと、また金管楽器が異なるキーに調整されている関係で苦労していたということが推測できる。コペンハーゲンのデンマーク音楽アカデミーで学長を務めていたニルス・ゲーゼに紹介されたニールセンは高い評価を受け、その後すぐさま軍楽バンドを除隊できることになると、1884年の年初からアカデミーで学び始めた。 傑出した学生というわけではなく作曲も少ししかしなかったが、ニールセンはヴァルデマー・トフテ(1832年-1907年)の下でヴァイオリンの技術をしっかり習得した。カール・ローセンホフ(1844年-1905年)からは確かな音楽理論の基礎を受け継ぎ、さらにプロの作曲家として駆け出しの頃には価値ある助言を授かった。さらに作曲に関してはゲーゼの指導も仰いでいたが、ゲーゼを友人としては好んだものの彼の音楽は好みに合わなかった。学生仲間やコペンハーゲンの教養の高い家庭との交流からはその後生涯にわたる友人となる者もおり、同様に重要であった。お国柄に由来するむらのある教育はニールセンに美術、哲学、美学に対する貪欲な好奇心をもたらした。しかし音楽学者のデイヴィッド・ファニングの見解では、そうした教育が彼に「それらの主題に対する非常に個人的な、一般人としての見方」を残したのだという。音楽院時代にはヴァイオリン・ソナタ、弦楽四重奏曲などの習作を手がけた。全教科において抜群とはいかぬまでも優秀な成績を収めて卒業、1886年にアカデミーを後にする。まだ自立できるような役職についていなかったニールセンは、引退した商人のイェンス・ギーオウ・ニールセン(1820年-1901年)とその妻が住むSlagelsegadeの集合住宅へと身を寄せた。ここにいる間に、彼は夫妻の娘である当時14歳のイミーリェ・ディーマント・ハット(英語版)と恋に落ちる。恋人関係はその後3年間にわたって続くことになる。 1887年9月17日、ニールセンは自作の弦楽合奏のための『Andante tranquillo e Scherzo』の初演に際してチボリ公園コンサートホールでヴァイオリンを演奏した。その後まもない1888年1月25日には、Privat Kammermusikforening(私的室内楽協会)の私的演奏のひとつとして弦楽四重奏曲 ヘ長調が演奏された。ニールセン自身はこの弦楽四重奏曲をプロの作曲家としての公式デビュー作品にするつもりであったが、『小組曲』の方が遥かに大きな印象を与えることになった。1888年9月8日にチボリ公園で演奏されたこの作品にニールセンの作品番号1が与えられたのである。翌年にかけて交響曲に挑戦するも挫折し、その第1楽章を『交響的ラプソディ』へと転用した。 ヴァイオリンの腕前を十分に磨いていたニールセンは、1889年9月に名誉あるデンマーク王立管弦楽団の第2ヴァイオリンとして加入することになった。この楽団はコペンハーゲンの王立劇場で演奏しており、当時はヨハン・スヴェンセンが率いていた。この職を務める間にジュゼッペ・ヴェルディの『ファルスタッフ』と『オテロ』のデンマーク初演を経験することになる。ここでの仕事は時に強いストレスとなったが、1905年まで演奏を続けた。1906年にスヴェンセンが引退すると次第にニールセンが指揮者を務める回数が増えて行き、1910年には公式に副指揮者として任用される。音楽院卒業から楽団での職を得るまでの間はヴァイオリンの個人レッスンによりわずかながらの収入を得ていた。また支援者にも恵まれ、イェンス・ギーオウ・ニールセンだけでなく、いずれもオーデンセで工場を営むアルバト・サクス(Albert Sachs 1846年生)とハンス・ディーマント(Hans Demant 1827年-1897年)も彼のパトロンであった。王立劇場の仕事に就いて1年も経たぬうちニールセンは1,800クローネの奨学金を獲得し、これによって数か月に及ぶヨーロッパを旅行に出ることができるようになった。
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