天譴論の広まりと政争の決着
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「天明の打ちこわし」の記事における「天譴論の広まりと政争の決着」の解説
天明7年5月の江戸打ちこわしでは、打ちこわし勢以外の多くの人々が、自らの利益のために米の買い占め、売り惜しみをした米屋、民衆が厳しい困窮状態に追い込まれながら何ら有効な対策を取ろうとしなかった町奉行、そしてこのような事態を招いた田沼意次の政治に対する厳しい批判の目を向け、逆に打ちこわし勢に対して同情的であった。このような情勢下、先にも述べたように江戸町奉行は打ちこわし時に拘束した多くの人々について、米屋との喧嘩との名目で罪に問うことなく釈放した。これは奉行所としても生活苦に追い込まれた上での打ちこわしという行為が社会的に正当性があると認めざるを得ない面があり、広範囲の処罰を放棄せざるを得なかったためと考えられる。 そして将軍御膝元の江戸で町奉行が鎮圧不可能となった激しい打ちこわしが発生し、しかも江戸打ちこわしと同時期に全国の主要都市でも同時多発的に打ちこわしが発生した事実は、天明の大飢饉、浅間山大噴火、関東の大洪水とともに、田沼意次によって主導されてきた幕政が仁政を行おうとしない悪政であるため、天が民の手を借りて天罰として打ちこわしを起こしたとの見方が広まった。この天命による打ちこわし発生論は田沼政治が正統性を完全に喪失したものと受け止められ、実際の打ちこわし時に見られた田沼批判とともに田沼派の没落を決定付ける作用をもたらした。 打ちこわし発生直前、天明7年4月15日(1787年5月31日)には徳川家斉に将軍宣下が行われ、田沼派と譜代派の政争は一時政治休戦の状態となっていた。そして将軍宣下後、一橋治済らは松平定信擁立運動を再開していた。天明7年5月に大奥老女の大崎が一橋治済邸を訪れた際、治済は大崎に対して御用御側取次の横田準松こそが田沼派の中心人物であるとし、横田の失脚運動を要請した。しかし横田は御用御側取次の代表格として将軍側近の筆頭であり、天明7年5月1日(1787年6月16日)には3000石を加増されて9500石となったばかりで、「飛ぶ鳥を落とすほど」と形容されたほどの権勢を誇っており、大奥老女の大崎としても手の打ちようがないと答えざるを得なかった。 しかし天明7年5月に全国各地で打ちこわしが発生し、江戸でも町奉行の手では鎮圧不可能となった極めて激しい打ちこわしが勃発するという異常事態の中、事態は急展開する。まず天明7年5月24日(1787年7月9日)、御用御側取次の本郷泰行が解任され、続いて天明7年5月28日(1787年7月13日)には同じく御用御側取次をしていた田沼意次の甥である田沼意致が病気により免職となり、そして天明7年5月29日(1787年7月14日)、将軍家斉に江戸打ちこわしの実情を正しく伝えなかったとして問題の横田準松が御用御側取次から解任された。結局4名いた御用御側取次のうち残ったのは譜代派の小笠原信喜のみであり、全国を席巻した打ちこわし、その中でも特に激しかった江戸打ちこわしを背景に攻勢を強めた譜代派に対して、最強の牙城であった将軍側近役人から田沼派は全て排除され、最終的な敗北を余儀なくされることになる。そして天明7年6月19日(1787年8月2日)、松平定信が老中に就任することになった。 杉田玄白は譜代派と田沼派との暗闘の末、最終的に打ちこわしによって松平定信政権が成立した経緯について、「もし今回の騒動がなければ、御政道が改まることはなかっただろうと言う人もいる」と書いており、松平定信政権は民衆蜂起の圧力によって田沼派が排除されたことによって成立することが可能となった政権であると評価することができる。江戸時代を通して民衆蜂起が政権交代の直接原因となったケースは天明7年の政権交代以外には無く、松平定信を筆頭とする新たな幕閣は、これまでの政権担当者よりも遥かに深刻な危機感を持って都市政策、農村政策などの社会政策に取り組んでいくことになり、いわゆる寛政の改革が開始されることになる。
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