大阪博覧会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 04:07 UTC 版)
明治期、様々な文物・制度が西欧より移入されたが、博覧会という催しもその一つであった。国際博覧会への参加自体は幕末から始まっていたが、明治の世になると富国強兵の手段として盛んに「内国勧業博覧会」というものが開催された。具体的には西欧文明の文物・技術の紹介と習得、そしてその切磋琢磨の場の提供、およびそれら産業への投資を募集する産業振興が目的であった。 大日本帝国がアジアに拡張する中で開かれた大阪博覧会は、これまでの博覧会の内容や展示のあり方とは一線を画すものであった。欧米の博覧会で採用されていた帝国主義の植民地主義的な展示方式、すなわち植民者が現地人を差別的に眼差す展示方式を初めて導入した博覧会となった。 「人間の展示」は民間業者主催の学術人類館というパビリオンでなされた。当時の資料によれば学術人類館は以下のようなものであった。 ■『風俗画報』269号(1903年) 内地に近き異人種を集め、其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて、北海道のアイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、同キリン人種七名、ジャワ三名、バルガリー一名、トルコ一名、アフリカ一名、都合三十二名の男女が、各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見するにあり(以降、大阪朝日新聞「博覧会附録 場外余興」とほぼ同じ内容) ■大阪朝日新聞「博覧会附録 場外余興」(1903年3月1日) ○人類館 斜に正門に対して其建物あり。準備の都合にて開館は来る五日頃となるべく夜間開館の事は未定なりと云へば当分は昼間のみならん。内地に近き異人種を聚め其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて北海道アイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、瓜哇一名、バルガリー一名、都合二十一名の男女が各其国の住所に摸したる一定の区画内に団欒しつゝ日常に起居動作を見すにあり。亦場内別に舞台如きものを設け其処にて替はる〳〵自国の歌舞音曲を演奏せしむる由にて観客入場の口は表にありて出口は裏にあり。通券は普通十銭、特等三十銭にして特等には土人等の写真及び別席にて薄茶を呈すとの事。 一方台湾館は、極彩色の楼門及び翼楼をもった建築物であり、中では台湾に関し15部門(農業・園芸から習俗まで)の展示が行われた。これは当時日本の植民地となってすでに9年が経過していた台湾の実情を内外に知らしめるために設けられたのである。この台湾館は、その後の博覧会でも常に設けられるようになり、また植民地の拡大とともに増設されていった樺太館や滿洲館・拓殖館・朝鮮館といった「植民地パビリオン」のモデルとなった。
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