湖上交通の統一へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 10:29 UTC 版)
1889年(明治22年)、湖東線(現在のJR東海道本線)が開通すると輸送量が減少したため、草津駅と山田港の間に連絡用の馬車の運行を行ったが、のちに人力車組合と提携して連絡輸送を行った。なお、草津駅と山田を結ぶ鉄道路線の計画もあったが進展はなかった。 1894年(明治27年)、大津町からの補助を得て大津と石山・坂本を結ぶ遊覧船の運航を開始したが、1903年(明治36年)に開催された大阪博覧会に乗じた旅客誘致(「近江八景めぐり」)など、遊覧船事業が徐々に活発となるとともに営業成績も向上していった。また、1911年(明治44年)春から神戸・大阪・京都と石山寺・南郷・坂本間で国鉄との船車連帯輸送を、1920年(大正9年)には京阪電気鉄道(京阪)との船車連帯輸送を開始している。このほか1925年(大正14年)、自ら設置した南郷遊園地の開業と翌年のモーターボートによる新造船就航など、観光事業者としてさらなる発展をみた。これら積極策も相まって、輸送人員の増加率は太湖汽船(初代)と比べてより大きくなっている。統計に残る1899年と、後述する両社の合併直前の1926年までの旅客輸送量を比較すると、太湖汽船の約1.5倍に対し湖南汽船は約2.5倍の増加である。 一方、営業エリアの拡大を狙う京阪は、連帯輸送(前述)のほか1926年(大正15年)には船舶建造のための融資を行うなど、徐々に関係を深めていった。1920年(大正9年)、京阪が湖南汽船に出資し、のちに子会社となった。また、京阪の出資による大津-長命寺-竹生島航路の就航や、湖南汽船が湖東汽船を設立し彦根-竹生島航路を就航させるなど航路を拡げていった。 一方、太湖汽船(初代)は東海道本線のほか江若鉄道の開通などで斜陽となったことから1927年(昭和2年)、大津電車軌道(現在の京阪石山坂本線)などと合併し、琵琶湖鉄道汽船と改称したが、鉄道事業の不振や湖南汽船社長の仲介などもあり1929年(昭和4年)、京阪と合併。同時に船舶部門は湖南汽船に現物出資され、同社は太湖汽船(2代目)に改称した。さらに1951年(昭和26年)、現在の社名である琵琶湖汽船に改称した。 鉄道が未発達の頃は一般交通機関として利用されたが、のちに鉄道やバスなどの競合交通機関が現れると、その役割を遊覧船に移していった。ただし湖上遊覧目的ばかりではなく、湖北へ向かう往路夜行便の「スキー船」や「水泳船」などの運航が京阪との一貫輸送により行われていたほか、草津方面への生活航路(穴村航路・山田航路)が第二次世界大戦後も長らく運航していた。
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