大規模基地の建設工事
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「キャンプ・ハンセン」の記事における「大規模基地の建設工事」の解説
國場組が主契約者となったことで知られる恒久施設の建設は1950年代末からである。最盛期には2000名の労働者を監督して工事は実施された。 工事計画は1958年に公表され、1959年5月15日国際入札が実施された。当初計画では予算約1100万ドルであり、後に実施された追加工事は400万ドルの契約 である。『國場組』社史はこれを約40億円、現在(1984年出版時)の貨幣価値に換算すれば数十倍と書いている。 『極東の城』には次のような規模だと伝えている。 収容人員:海兵隊員約5000名 建物:218棟 道路、駐車場の舗装:251,320平方ヤード 排水渠延長:22,935フィート 直接埋設電力線延長:39,160フィート 銅電線延長:57,260フィート 鋳鉄製水道管延長:52,290フィート コンクリート下水管延長:46,590フィート 地下輻射暖房システムの完備 専用の水源としてキャンプ・ハンセンダムを建設 工事区域面積:約800万平方メートル この入札は沖縄内ばかりでなく本土の業者や海外の業者も参加したが、國場組としては採算性に多少目を瞑ってでもこのプロジェクトを受注して名を挙げることとし、ギリギリの採算ラインとして1114万5600ドルの入札価格を弾き出した。しかし、1,100万ドル前後が勝負と見られたため、更に15万ドル差し引く案が提案され、熟考の末社長の國場幸太郎の決断により差し引いた。結果は、1位で堂々の落札となったが、2位のフィリピンの業者とは僅か2万2,000ドルの差であった。なお最高入札額は本土のある業者で1772万7554ドルであった。その後、細部を詰めてアメリカ陸軍工兵隊沖縄地域工兵隊と6月11日に契約授与の署名を手交した。 ただし着工後は問題も発生した。國場組は戦後一貫して米軍関係工事を受注し続けており、米軍工事につき物のPQ(Pre-Qualification,事前審査)による施工能力、実績などのハードルも乗り越えて来ており、米軍仕様には慣れていた。それでもこの工事の際米軍が求めてきた検査の厳格さは従来に無いものであり、検査官に工事のやり直しを命じられた箇所もあった。また、工事規模が大きくなったことから建設労務者と機材が逼迫し、各種技能者への手当ても高騰する結果となった。当時沖縄は基地建設ブームで島外からも業者が参入しており、國場組を含めて土木機械はリースで調達することが多かったため、このリース料も高騰した。このような要因により、國場組の工程管理と労務管理は失敗し、同社は資本金の3倍を上回る欠損を出して銀行の管理下に入り経営再建の道を歩むこととなったのである。なお、当時としてはプレキャスト・折版造りで建設されたキャンプとしては海兵隊最大のものであった。1962年10月20日、工事は完成した。 この建設工事完工に連動して基地周辺には米兵を顧客とする特飲街(新開地と通称)が発達し、人口も町外から流入し急増していった。金武にて町制の施行は1980年4月1日である。
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