大和国西大寺時代略歴
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正応5年(1292年)、文観は数え15歳で奈良に上った後、まずは興福寺に入り良恩から法相宗を3年間学んだ。真言律宗ではなく法相宗を勉学したのは、真言律宗の本拠地である西大寺は興福寺の末寺(従属下の寺)だったからだと考えられる。 文観は法相宗を修めた後、永仁3年(1295年)に真言律宗の本拠地である西大寺に移り、第2世長老である信空に入門した。信空から律蔵(戒律の学問)を学ぶとともに、勤策十戒を授けられ、勤策(ごんさく)=沙弥(しゃみ)、つまり見習いとはいえ正式な僧侶になった。このとき数え18歳。また、文観はこのとき絵画の練習も始めたと考えられている。開祖である叡尊自身が一定の画技を持ち、叡尊の弟子にも仏画を得意とするものが多かったことから、絵を学ぶのに良い環境にあったからである。 正安2年(1300年)、数え23歳の時、文観は菩薩大苾芻位を授けられ、苾芻(びっしゅ)=比丘(びく)、つまり一人前の僧侶として認められた。文観はこのとき既に相当の絵画の腕前を持っており、同年閏7月21日には、大和国吉野の現光寺(後の奈良県吉野郡大淀町の世尊寺)で、開祖の叡尊の画像を描いている。署名には「二聖院殊音」とあり、「二聖院」という名乗りから西大寺の中心派閥にいたことがわかる。また、後年の南北朝時代、数え60歳の文観が自身の若かりし頃の画事を見て、感慨の余り再署名をしているなど、史料としても重要である。 文観は、正安3年(1301年)、数え24歳の時に真言宗の僧にもなった。まず、真言律宗上の師である信空からは真言宗松橋流の付法(伝授)を受けたが、これは信空の腹心にしか許されない高い待遇だった。さらに、真言宗醍醐派の実力者である大僧正道順からは、真言宗報恩院流の付法を受けた。なぜ若い文観が道順という強大な政僧と繋がりを有していたのかは不可解である。しかし、当時の真言律宗の実力者はしばしば真言宗の高僧から付法を受けたので、文観が道順の弟子となった経緯は謎でも、道順の弟子となったことそのものは自然である。 正安4年(1302年)には、開祖である興正菩薩叡尊の十三回忌が行われた。このとき、文観は真言律僧の20代若手層の筆頭として、『大般若経』書写事業の監督など重要任務を任されたと考えられている。また、画僧としても既に天才絵師としての名声を築いており、木造騎獅文殊菩薩の納入品には、文観が他の僧から依頼されて描いた仏画などが含まれている。 この頃、真言律宗で叡尊と並ぶ名僧であり、ハンセン病患者など社会的弱者の救済に生涯を尽くした忍性が入滅した。一方、叡尊の後継者であり文観の師である信空は、後宇多上皇(後醍醐天皇の父)の帰依を受けるなど、勢力を拡大していった。信空は同郷人で兄弟子でもある忍性を盛大に弔ったり、備後国尾道(広島県尾道市)の浄土寺へ門弟60余人を連れて訪問したりするなど、真言律宗の隆盛を内外に示した。
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