大和国長谷寺へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
正平7年(1352年)5月に南朝が京都を逐われて以来、文観がどこにいたのか必ずしも明確ではない。仏教美術研究者の内田啓一は、十一面観音で著名な大和国初瀬(奈良県桜井市初瀬)の長谷寺との関わりを指摘している。 文観と長谷寺の関わりが見られるものとしては、正平8年/文和2年(1353年)9月4日に著した『十一面観音秘法』がある。奥書によれば、この書は洞院左大将、つまり後醍醐・後村上両帝の側近だった公家大将の洞院実世の依頼によって書かれたものであるという。近世の史料ではあるが『歴朝要記』(『大日本史料』所収)にも後に洞院実世が長谷寺で薨去したとあり、実世と長谷寺は縁が深かったようである。また、長谷寺は文観の出身母体である真言律宗西大寺とも関わりがあった。
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