大和国狭川福岡氏とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 大和国狭川福岡氏の意味・解説 

大和国狭川福岡氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/30 06:12 UTC 版)

福岡氏」の記事における「大和国狭川福岡氏」の解説

狭川福岡氏は狭川庄を支配していた源姓狭川氏の庶流通字は「孝」。 室町期以降徐々に勢力拡大し応仁元年1467年)に勃発した応仁の乱前後筒井氏傘下国人領主として活動している。後に古市氏傘下転ずるも、大永4年1524年)頃には、再び筒井方に転じて古市氏傘下柳生氏須川氏らとも抗争繰り広げている。 また、文明15年1483年)から天正4年1576年)まで、春日若宮祭礼長川願主人を勤めている。 戦国時代末期、福智庄の国人領主、上狭川城主として活動していた福岡氏当主福岡重孝がいる。一時松永久秀従ったが、後に筒井氏に従って活動した。子の干基は天正10年1582年)の本能寺の変討死したため、弟の干孝が跡を継いだ。 干孝は幼少時松永久秀人質として信貴山城居住していた。松永久秀謀反起こし織田信長の軍によって信貴山城攻め落とされると、近江国長浜城となっていた山内一豊家臣となった天正18年1590年)の小田原征伐では、伊豆国山中城攻めで功を上げ主君山内一豊駿河国掛川城となると500石を知行した。 慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いの後、山内一豊土佐一国与えられると、それに随従して土佐国入国。その才をもって山内氏土佐支配貢献した子孫土佐国家老上士として続き幕末には五箇条の御誓文起草したことで著名な福岡孝弟出している。維新後子爵遇された。 その他、山内一豊従わず大和国生活した一族もおり、大阪府兵庫県奈良県で多い名字である。

※この「大和国狭川福岡氏」の解説は、「福岡氏」の解説の一部です。
「大和国狭川福岡氏」を含む「福岡氏」の記事については、「福岡氏」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大和国狭川福岡氏」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大和国狭川福岡氏」の関連用語

1
56% |||||

大和国狭川福岡氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大和国狭川福岡氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの福岡氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS