外国遍歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 05:53 UTC 版)
「エカテリーナ・ダーシュコワ」の記事における「外国遍歴」の解説
ダーシュコワと女帝との関係は、ダーシュコワが忠実に献身し続けたにもかかわらず、次第にぎくしゃくした物になった。両者の不協和音の最初の原因は、7月8日のピョートル3世の殺害である。先帝殺害にダーシュコワは大きな衝撃を受ける。この事件を契機にオルロフ兄弟との関係が悪化した。9月22日のエカテリーナ2世の戴冠式に伴い、同日付けでダーシュコワは最高女官長に任命される。しかし、女帝の情人で宮務官として実力者となったグリゴリー・オルロフ公爵に対して嫌悪の念を隠しきれず、クーデター直後で宮廷内の混乱を避けようとする女帝にも失望する。 1764年、夫ダーシュコフ公はポーランド派遣軍司令官となるが、8月17日赴任先のポーランドで急死する。ダーシュコワはショックで倒れ、左半身麻痺が残った。ダーシュコワには負債が残された。女帝から負債処理のため世襲領地売却の勅許が降りるが、寵臣に対する厚遇と比較して余りの不遇にダーシュコワは激怒し、領地であるモスクワ近郊トロイツコエ村に下り、公爵家の再建に取り組み1769年に完済する。 この間、1768年に自身と二人の子供の転地療養を名目に西欧旅行を請願する。翌年9月勅許を得たダーシュコワは、12月サンクトペテルブルクを発ち、ミハルコワ夫人の変名で第一回西欧旅行に出発した。1770年プロイセン王国のフリードリヒ2世と会見する。保養地のスパーで療養中、イギリス・スコットランドのモーガン夫人、ハミルトン夫人と交友を持つ。大陸から渡英しロンドン、バース、ブリストル、を経てオックスフォードに赴き、オックスフォード大学でブリタニカ大事典を閲覧し羨望する。11月大陸に戻り、パリでドニ・ディドロと会う。ディドロは「ダーシュコワ夫人は全く美人ではない」「当時27歳の彼女が40歳くらいに見えた」と容貌については、辛辣に語っている。しかし「話すときは率直で、力強く、説得力がある。正義を重んじ、尊厳を尊ぶ。芸術を理解し、人間をよく理解し、祖国の窮状を知り、圧制とあらゆる暴虐を強く憎む」と彼女の内面を絶賛している。南仏でハミルトン夫人一家と過ごした後、1771年にスイスに行き、ヴォルテールと会い、彼にも賞賛された。ハミルトン夫人と別れ、9月末頃サンクトペテルブルクに戻る。 帰国後、エカテリーナ2世から7万ルーブルを下賜されるが、これには、ディドロ、ヴォルテールがダーシュコワを褒めたことと、女帝の愛人であったグリゴリー・オルロフ公爵の失墜が影響したと考えられる。しかし、1773年、ニキータ・パーニン伯爵の皇太子パーヴェル・ペトロヴィチ大公擁立未遂事件に関し、計画合意書に署名していたため、1775年まで領地で逼塞を余儀なくされる。このため、1773年9月に訪露したディドロとは会見できなかった。1775年次男パーヴェル・ダーシュコフの教育を名目で外遊許可を請願する。1776年秋、パーヴェルはエディンバラ大学に入学。ダーシュコワはパーヴェルの教育環境を整え、デービッド・ギャリック(David Garrick) 、ウィリアム・ロバートソン(William Robertson)らに息子の教育を任せた。ダーシュコフ自身息子以上に英国市民社会の理念に影響を受け大学の自治や学問の自由について身をもって知ることになる。
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