口伝の流布
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 03:44 UTC 版)
「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の記事における「口伝の流布」の解説
原は、本図の異様な容貌・姿態は、「三方ヶ原の戦いでの敗戦直後の姿」という口伝から必然のものと理解され、また「家康が、自身の慢心を戒めるために自身の姿を描かせ、自戒のために座右に置いた」という逸話が家康の人間性をよく表しているとし、また「失敗を真摯に反省することが次の成功につながる」という人生譚が現代の日本人の共感を呼んで歴史書や経済誌などでも取り上げられたことから、本図にまつわる口伝は、2016年現在、現代人の共感を呼び、広く周知されている、としている。 城郭考古学を専門とする千田嘉博・奈良大学長は、原の説について、しかみ像は、家康が神格化されたことを背景に、「様々な困難に耐えて最後に天下人になった」という後世のイメージを投影し(て描かれ)たものだと思われる、と評している。 2007年11月10日には、徳川宗家第18代当主の徳川恒孝が、本図を題材として製作された『しかみ像』と題した石像を、「負け戦をステップにして次へ進んだ像」であり「像の意義を子供たちに話してほしい」として岡崎市へ寄贈し、これが同市内の岡崎公園に設置された。 2012年1月24日の朝日新聞の記事によれば、本図は伝承における家康と自身とを重ね合わせる者が多いサラリーマン層からの人気が高いとし、2010年(平成22年)以降、本図をあしらった衣料品や食品などを扱う協同組合・浜松卸商センターの代表は「しかみ像に、逆境から立ち上がるエネルギーを感じ取る人が多いのではないか」とコメントした、としている。 2015年2月20日には、浜松市が徳川家康公顕彰400年記念事業の一環として約250万円をかけて本図の等身大の立体像を製作、浜松市博物館にて公開し、同市の鈴木市長が「家康の原点ともいえるしかみ像をシンボルにしたい」と述べている。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}また『三方ヶ原戦役画像』の伝承を肯定した上で同像についての評論を展開する言説は研究者の中からも出されていた[要出典]。 美術史学者の木村重圭 は、家康を神格化して描いた「東照大権現像」と比較する形で本図を「人間家康を彷彿とさせる画像」と評した。 日本史学者の岡本良一 は、本図は、迫真性を備えたありのままの家康像であるとし、歴史研究も『三方ヶ原戦役画像』のように虚飾を排した家康の人間性を発掘するべきであると論じた。 同じく日本史学者の守屋毅は、本図を「威風堂々たる家康肖像群のなかで、なまな表情をうかがわせる数少ない作品の一つ」としている。 その他に、歴史学以外の分野から本図の容貌・姿態の描写の分析を試みた論説も見られる。[要検証 – ノート] 表情分析を研究する心理学者の工藤力 は、横に引っ張られたような眉は恐怖を、大きく見開いた目は驚きを、口角が下がっているのは失望や無念といった家康の心情をそれぞれ表していると解釈し、足を組んで片頬に手を当てる格好は身体の震えを抑えるためではないかと推論している。 医師兼作家の篠田達明は、本図は、急性の驚愕反応に襲われた家康を描いており、顔の表情や四肢の肢位に心理的不安感が凝縮された類を見ない異様な全身像であると考察している。
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