原稿と出版
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 09:48 UTC 版)
「イブン・バットゥータ」の記事における「原稿と出版」の解説
19世紀の初頭にドイツの探検家ウルリッヒ・ヤスパー・ゼーツェンが中東にて94ページのイブン・ジュザイイの原稿の要約版を手に入れるまで、イスラム世界を除いてはイブン・バットゥータは知られていなかった。1808年、ゼーツェンは入手した不完全な写本に基づいて、その大まかな内容をヨーロッパに報告した。ゼーツェンが入手した写本は、1818年にドイツの東洋学者ヨハン・コーゼガルテン (Johann Gottfried Ludwig Kosegarten) が3冊の抄本として出版し、訳文もつけた。また、門下のアペッツが翌年に4冊目の補編を出版した。東洋学者シルヴェストル・ド・サシ (Silvestre de Sacy) が学術紙に長い論評を寄せると、フランスの学者たちはフランスでの出版を期待して色めき立った。 スイスの旅行家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトが新たに3冊の要約版を入手し、彼の死後ケンブリッジ大学に寄贈された。1819年にはヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトの遺稿として簡潔な論評が発表された。アラビア語の原稿がサミュエル・リー(英語版) (Samuel Lee (linguist)) により英訳され1829年、ロンドンにて出版された。 1830年、フランス占領下のアルジェリアにてパリのフランス国立図書館は2冊の完全版を含む5冊の原稿を入手した。うち第2部のみ残っている1冊の原稿は1356年のものでイブン・ジュザイイの自筆のものでは無いかと考えられている。フランス国立図書館の原稿は、まず、アイルランド系フランス人の東洋学者ド・スラーヌ (Baron de Slane) が1843年にイブン・バットゥータのビラード・アッ=スーダーン(西アフリカ)への旅をフランス語に訳した際に使用された。次に、フランスの学者シャルル・ドゥフレメリ(フランス語版) (fr:Charles Defrémery) とベニアミノ・サンギネッティ(Beniamino Raffaello Sanguinetti)もこのフランス国立図書館の原稿を底本として校訂を行ったうえでアラビア語の原文にフランス語の対訳を付けた4巻本を、1853年の初頭に発表した。この校訂本は通称「パリ本」と呼ばれ、非常に質が高いと評価されている。後述する日本語訳版も含め、各国語への諸翻訳において底本とされている。なお、ドゥフレメリとサンギネッティは冒頭でサミュエル・リーの注釈を評価しながらも、翻訳に関しては極単純な言い回しでさえも正確性に欠けていると批判した。 1929年、サミュエル・リーの翻訳の出版からちょうど1世紀、歴史学者で東洋学者であるハミルトン・ギブ (Hamilton Gibb) は、パリ本に基づいてアラビア語から英語に抄訳し発表した。ギブは1922年、ハックルート学会(Hakluyt Society)に旅行記の注釈付き英語完訳の出版を提案する。彼は旅行記をパリ本の体裁に沿った形で4巻にわけた形での翻訳を予定した。第1巻は1958年に出版された。ギブは3巻までを完成させた後1971年にこの世を去った。4巻はチャールズ・ベッキンガム(Charles Beckingham)が引継ぎ、1994年に出版された。 イブン・バットゥータの旅行記(通称リフラ)の日本語への翻訳は、やはりパリ本を底本にして、前嶋信次が全体の四分の一を抄訳したもの(1954年8月10日初版)が最初である。ハミルトン・ギブの抄訳版ののちの翻訳であったが、同抄訳版が手に入らなかったため参照できず、同抄訳版とは訳出しなかった箇所に違いがある。全文の翻訳は、家島彦一によりなされ、1996年から2002年にかけて平凡社東洋文庫から全8巻本で刊行された。
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