博奕打ちシリーズ
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「博奕打ち 総長賭博」の記事における「博奕打ちシリーズ」の解説
博奕打ち (1967年、小沢茂弘監督 小沢茂弘・村尾昭・高田宏治脚本) 博奕打ち 一匹竜 (1967年、小沢茂弘監督、小沢茂弘・高田宏治脚本) 博奕打ち 不死身の勝負 (1967年、小沢茂弘監督、小沢茂弘・高田宏治脚本) 博奕打ち 総長賭博 (1968年、山下耕作監督、笠原和夫脚本) 博奕打ち 殴り込み (1968年、小沢茂弘監督、笠原和夫脚本) いかさま博奕 (1968年、小沢茂弘監督、村尾昭・高田宏治脚本) 必殺博奕打ち (1969年、佐伯清監督、棚田吾郎脚本) 博奕打ち 流れ者 (1970年、山下耕作監督、鳥居元宏・志村正浩脚本) 博奕打ち いのち札 (1971年、山下耕作監督、笠原和夫脚本) 博奕打ち外伝 (1972年、山下耕作監督、野上龍雄脚本) 監督は『兄弟仁義』シリーズを手掛けた山下耕作、脚本は『日本侠客伝』シリーズの笠原和夫で、共に博奕打ちシリーズ初登板となった。当時の両名は既にヤクザ映画にマンネリを感じて辟易してしまっており、両名の会談で『兄弟仁義』の逆をやる、というコンセプトが固まった。つまり義理人情の任侠作品ではなくヤクザの内紛を描く葛藤劇である。 1968年正月第2週作品として公開され、まずまずの興行成績を収めるが会社サイドの要求水準に達せず、ヤクザの女房が手首を切って自害するシーンなどがあって、正月作品としては入りが伸びなかった。山下と笠原は当時の京都撮影所所長・岡田茂(のち、東映社長)に呼びつけられ「おまえら、ゲージツみたいなもん作ったらいけんどぉ! 客入っとらんど!」なと広島弁でどやされた。しかし公開から1年後の1969年、小説家の三島由紀夫が『映画芸術』同年3月号にて批評「『総長賭博』と『飛車角と吉良常』のなかの鶴田浩二」を寄せて流れが変わる。三島は「これは何の誇張もなしに『名画』だと思った」などと述べ、ギリシア悲劇にも通じる構成と絶賛した(この三島の批評は、現在では『三島由紀夫全集』や『三島由紀夫映画論集成』で読む事が出来る) 当時のヤクザ映画は笠原曰く「本当に傍流のそのまた傍流みたいな路線」であり、批評家は悉くその存在を無視していた。そこに碩学の三島が賛辞を送った事から、ヤクザ映画は初めて芸術面での評価を獲得し、市民権を得ることとなった。なお「シナリオ」同年7月号では、久世光彦もこの作品に批評を寄せている。1971年には「中央公論」で佐藤忠男が、この作品の若山富三郎は全共闘運動にも通じるという評価を与えた。三島は任侠映画のファンで、岡田茂とは任侠映画を通じて深い付き合いがあり、よく東映の試写室に来ていて「岡田さん、役者としてオレ出ようか」と出たがっていたが「やめといた方がいいよ」と止めたという。 またこの作品で鶴田を助演した若山富三郎も長い不遇の時期を乗り越えて認められ、以後『極道シリーズ』などの一風変わったヤクザ映画のシリーズで主演を努めた。 この作品の後、山下は藤純子主演、鈴木則文ら脚本『緋牡丹博徒シリーズ』(1968年〜)においても、高度な芸術性を発揮した。笠原は『純子引退記念映画 関東緋桜一家』(1972年)などを経て『仁義なき戦い』へと至り、ヤクザ映画に「実録路線」という新風を吹き込む事となる。鶴田はトップの座こそ高倉健らに譲るが、日本映画界の大スターとして晩年まで映画、ドラマに多数出演した。
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