博奕打ちシリーズとは? わかりやすく解説

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博奕打ちシリーズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 06:07 UTC 版)

博奕打ち 総長賭博」の記事における「博奕打ちシリーズ」の解説

博奕打ち1967年小沢茂弘監督 小沢茂弘村尾昭・高田宏治脚本博奕打ち 一匹竜1967年小沢茂弘監督小沢茂弘高田宏治脚本博奕打ち 不死身勝負1967年小沢茂弘監督小沢茂弘高田宏治脚本博奕打ち 総長賭博1968年山下耕作監督笠原和夫脚本博奕打ち 殴り込み1968年小沢茂弘監督笠原和夫脚本いかさま博奕1968年小沢茂弘監督村尾昭・高田宏治脚本必殺博奕打ち1969年佐伯清監督棚田吾郎脚本博奕打ち 流れ者1970年山下耕作監督鳥居元宏志村正浩脚本博奕打ち いのち1971年山下耕作監督笠原和夫脚本博奕打ち外伝1972年山下耕作監督野上龍雄脚本監督は『兄弟仁義シリーズ手掛けた山下耕作脚本は『日本侠客伝シリーズ笠原和夫で、共に博奕打ちシリーズ初登となった当時両名は既にヤクザ映画マンネリ感じて辟易してしまっており、両名会談で『兄弟仁義』の逆をやる、というコンセプト固まった。つまり義理人情任侠作品ではなくヤクザ内紛を描く葛藤劇である。 1968年正月第2週作品として公開されまずまず興行成績収める会社サイド要求水準達せずヤクザ女房手首切って自害するシーンなどがあって、正月作品としては入り伸びなかった。山下笠原当時京都撮影所所長岡田茂(のち、東映社長)に呼びつけられ「おまえら、ゲージツみたいなもん作ったらいけんどぉ! 客入っとらんど!」なと広島弁どやされた。しかし公開から1年後1969年小説家三島由紀夫が『映画芸術同年3月号にて批評「『総長賭博』と『飛車角吉良常』のなかの鶴田浩二」を寄せて流れが変わる三島は「これは何の誇張もなしに『名画』だと思った」などと述べギリシア悲劇にも通じ構成絶賛した(この三島批評は、現在では『三島由紀夫全集』や『三島由紀夫映画論集成』で読む事が出来る) 当時ヤクザ映画笠原曰く本当に傍流のそのまた傍流みたいな路線」であり、批評家悉くその存在無視していた。そこに碩学三島賛辞送った事から、ヤクザ映画初め芸術面での評価獲得し市民権を得ることとなった。なお「シナリオ同年7月号では、久世光彦もこの作品批評寄せている。1971年には「中央公論」で佐藤忠男が、この作品若山富三郎全共闘運動にも通じるという評価与えた三島任侠映画ファンで、岡田茂とは任侠映画通じて深い付き合いがあり、よく東映試写室来ていて「岡田さん役者としてオレ出ようか」と出たがっていたが「やめといた方がいいよ」と止めたという。 またこの作品鶴田助演した若山富三郎長い不遇の時期乗り越えて認められ以後極道シリーズ』などの一風変わったヤクザ映画シリーズ主演努めた。 この作品の後、山下藤純子主演鈴木則文脚本緋牡丹博徒シリーズ』(1968年〜)においても、高度な芸術性発揮した笠原は『純子引退記念映画 関東緋桜一家』(1972年)などを経て仁義なき戦い』へと至りヤクザ映画に「実録路線」という新風吹き込む事となる。鶴田トップの座こそ高倉健らに譲るが、日本映画界の大スターとして晩年まで映画ドラマ多数出演した

※この「博奕打ちシリーズ」の解説は、「博奕打ち 総長賭博」の解説の一部です。
「博奕打ちシリーズ」を含む「博奕打ち 総長賭博」の記事については、「博奕打ち 総長賭博」の概要を参照ください。

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