南山郷士と南山雲錦拾要
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大西家文書によると相楽郡椿井村の椿井万次郎は南山郷士の盟主のひとりである。 1867年、水取の大西家文書によると普賢寺郷の田宮喜平、今井佳平(今井良久;椿井権之丞が興福寺から持ち出した古文書を質入れしたと「郷社三之宮神社古文書伝来之記」にて書かれた人物,後に府会議員となる)の禁裏への出仕呼びかけに瓶原郷士が名乗りを上げ、 1868年正月、藤林(大西)春碩、田宮喜平次、椿井権之輔応龍(南龍堂)の息子とみられる椿井万次郎達が呼応、炭竃大隅守孝任末裔の瓶原郷士以外は系図を作成、新政府参与役所へ願書を提出、正月28日太政官代二条城での取調で聞き届けられ洛内屯所に詰め1869年8月まで勤務、それ以降は椿井家の名前は史料から姿を消すという。 1881年8月、南山義塾開校。南山城地域の自由民権運動の核であった。南山郷士も関係していると思われるという。 1881年9月、士族編入を願い出るが山科郷士のみ編入を許可された。 1884年「南山雲錦拾要」を根拠に南山郷士として士族へ編入された。 馬部は「南山雲錦拾要」の「応竜」の署名は椿井政隆の号であり、椿井文書であると鑑定する。 「南山雲錦拾要」は元弘の乱笠置山の戦いの際に後醍醐天皇の笠置寺行宮へはせ参じた義士について書かれたもので焼失後の写しが残るというが、歴史家が笠置寺縁起を元にした物語で史実としては正確ではないと評価したり、収録された吐師川原着到状や仏河原着到状は江戸時代頃または「明治時代はじめに古い記録を参考にしながらつくったと思われる文書」と評価されていた。 南山郷士盟主の一人と書かれた椿井万次郎は椿井権之助政隆の息子・椿井萬次郎政福と思われると書かれている。中田憲信筆写「諸系譜」」には椿井萬次郎政福の祖父・曾祖父・高祖父は養子と書かれておりその先祖は左少将政賢と記載されている。「寛政重脩諸家譜」では左少将政賢は後醍醐天皇と対峙した足利尊氏に仕えたと書かれている。「諸系譜」を筆写した中田憲信は「南方遺胤」にて、その南朝・後醍醐天皇の息子である後村上天皇第18代末裔と書かれている。[要校閲] 「南山雲錦拾要」は藤田精一(山城国綴喜郡田辺村出身)が楠木正成について書いた「楠氏研究」で利用されていたが関東大震災で焼失、田辺町史編纂資料調査時に水取の大西家で発見され「笠置日記」「般若寺良忍記」「興福寺官務帳」「大和国山辺氏記録」など三十六の資料の抜き書きであることが判明、南山城地域で南朝ゆかりの物語が生じた原因は興福寺や石清水八幡宮との縁ではないかとし、明治時代、公家方の北朝正統論と維新の志士側の南朝正統論の間で激しく論争された南北朝正閏論問題は明治天皇のお言葉で解決したと田辺町史は締めくくっている。。 南山郷士は弾正台京都出張台の門番を務めていたという。「諸系譜」で椿井萬次郎政福は「彈正臺門兵」と書かれている。弾正台は明治4年司法省に合併したが、「諸系譜」を筆写した中田憲信は裁判官で、「諸系譜」には一部名古屋控訴裁判所様式の用紙が使用されている。南山郷士となる南山城の郷士達へ禁裏への出仕を当初呼び掛けた今井佳平(今井良久)は木津の代官で、幕末に鉄砲隊隊長として禁裏の警衛に任じ、郷土頭に任じられ維新後に木津へ戻り、明治12年(1879年)3月府会議員となり明治16年(1883年)1月良久と改名、明治28年(1895年)8月8日64才で死去した。その今井氏こそが椿井文書を販売していた人物であり、椿井文書が木津に伝来した背景はここにあったと馬部はいう。[要校閲]
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