半七の人物像とは? わかりやすく解説

半七の人物像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 05:16 UTC 版)

半七捕物帳」の記事における「半七の人物像」の解説

文政6年1823年生まれ父親日本橋木綿問屋通い番頭半兵衛。母はお民13歳のとき(1835年)に父親亡くなったために、一家頼りを失う。半七奉公に出るが道楽の味を覚え放蕩三昧時期がしばらくつづいた後、18歳1840年)で神田三河町御用聞き・吉五郎の手下(下っ引き)となる。翌天保12年1841年12月19歳で「石灯籠事件初手柄をあげて以来、その機転のきいた推理行動力で吉五郎一家頭角あらわし3、4年後(1844年または1845年)に吉五郎病死した後は、遺言により一人娘のお仙と結ばれ御用聞き跡目相続する。「三河町の半七親分)」が通称である。以後名探偵として同心同僚目明しから多大な信頼寄せられ各種難事件珍事件に携った。4歳違いの妹であるお粂常盤津の女師匠常盤津文字房であり、神田明神下で母親女所帯構えている。半七の家とも往来がある。勘を基点として推理力働かせ、その目星にしたがって自分子分の手聞き込みにより傍証集めていく手法で、性格はかなり温厚粘り強い腕っ節物を言わせることもあるが、恫喝威嚇などは心理作戦として用い程度である。自身語り手ということもあるが、激情かられるような描写はほとんど見られない維新後廃業。その前後養子取って唐物屋輸入品の店)を開かせ、「わたし」との交際生まれた日清戦争後1894年明治27年以降)の時期には場末赤坂隠居している。この時点でお仙はすでに没し養子40歳。孫が2人いるらしい。甥との交流出てくるが、お粂の子としては年輩あわないところもあり、詳細不明である。 赤坂では老婢2人ぐらし。飼っている。江戸時代以来季節ごとの行事しきたり律儀重んじて暮らす昔かたぎ老人であるが、反面新しもの好きでもあり、新時代にも悪い印象決し持っていない。いち早く電燈鉄道利用していることが作中示されている。また、比較的まめに物詣遊山外出し、なかなか健脚である。話好きで、「前置き長い」と自分断りながらも、若い「わたし」昔話をするのをたいへんに好んでいる。交際広く、綺堂の別の作品三浦老人昔話」の主人公である三浦老人はじめとして、昔の事件かかわった人々とも、明治以降付合いつづけている。読書歴史小説好み酒はたしなむ程度で、下戸である。1904年明治37年)没。享年81

※この「半七の人物像」の解説は、「半七捕物帳」の解説の一部です。
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