千住製絨所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 23:02 UTC 版)
同年6月、千住製絨所に傭として就職した。千住製絨所は官営の毛織物工場で、明治31年(1898年)に陸軍の管轄となる。製絨所は井上省三の尽力で発展しつつあったが、明治16年(1883年)に工場が全焼したうえに、外国人技師との雇用問題などを抱え危機に陥った。明治18年(1885年)、製絨所を管轄していた農商務省は大竹のイギリス派遣を決定する。大竹に課せられた使命は、機械類の買付け、毛織物技術の習得である。 大竹はヨークシャー大学(リーズ大学)で染色技術やデザインを学び、首席で卒業した。大竹は染色技術を学問的(体系的)に学んだ最初の日本人と推測される。またロンドン市および同議会の技術試験に合格し、製絨術、毛織物染物術で名誉一級となっている。 なお、この時期に英国留学していた者に真野文二や末松謙澄がいた。後に大竹の長男虎雄(1893-?)は末松の養女澤子(伊藤博文庶子)を娶る。虎雄は東京専売局長を務めた大蔵官僚で、著書に『経済学概論』などがある。次男は早世、三男の千里は音楽家となったがパリで客死した(27歳)。虎雄と澤子の間に生まれた大竹俊樹は東北大学工学博士である。大竹と虎雄は会津会会員であった。 当時の日本の染色技術は天然染料を主流としていた。このため色落ちの問題を抱え、生糸生産国の立場に留まり、付加価値を有する製品を輸出する段階に至っていなかった。大竹は学問的知識に欠ける者でも利用可能な染料の分類方法を紹介し、日本への合成染料導入に寄与する。明治23年(1890年)に技師へ昇格し、千住製絨所の技術革新に努めつつ、東京帝大や東京高等工業で講師を務めた。明治34年(1901年)には博士会の推薦によって工学博士となる。 この年、大竹は自動織機について講演を行い、『自働織機』を刊行した。自動織機は大竹の独創的なアイディアではないが、この書は自動織機開発を志す者に有益なもので、後の開発に影響を与えている。 大竹は明治35年(1902年)4月から所長として製絨所の指揮を執り、 日露戦争前には小池正直が主導した検疫部設置準備委員会委員に就任している。千住製絨所は羅紗製軍服の製造を担い、戦中は非常態勢がとられた。職員職工は昼夜12時間交代で働き、生産量は前年度の2倍以上に増加している。明治37年度の職工延人数は前年度の男女計34万人台から71万人台へ、羊毛購入費は110万円代から300万円台への増加がみられた。こうして千住製絨所は中国東北部などの寒地で戦った日本兵の健康を守ったのである。製絨所幹部は戦後に叙勲を受け、大竹は勲三等に叙される。大竹にとって日清戦争後に続く2度目の叙勲であった。しかし、明治41年(1908年)4月の官制変更によって、大竹は工務長へ降格となった。
※この「千住製絨所」の解説は、「大竹多気」の解説の一部です。
「千住製絨所」を含む「大竹多気」の記事については、「大竹多気」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
Weblioに収録されているすべての辞書から千住製絨所を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 千住製絨所のページへのリンク