勝新太郎との比較
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 05:08 UTC 版)
「市川雷蔵 (8代目)」の記事における「勝新太郎との比較」の解説
雷蔵は脇役専門の役者・三代目市川九團次の子で、かつては二代目市川莚蔵といった。勝新太郎は長唄三味線方・杵屋勝東治の子で、かつては二代目杵屋勝丸といった。その雷蔵と勝が大映と専属契約を結んだのはともに1954年で、2人は同期入社だった。同じ1931年生まれで、歌舞伎に早々と見切りをつけて映画という新天地を選んだ点で、この2人は良く似た境遇にあった。 前述のように、大映の経営陣は雷蔵を長谷川一夫に続くスターとして売り出す意向を持っており、「スムーズに軌道に乗った」。一方、田中徳三によるとデビュー当初の勝は「長谷川一夫さんの二番煎じのような」白塗りの二枚目を演じていたが、監督も配役も一流のものとはいえず、長らくヒット作に恵まれなかった。 勝が興行収入や話題において雷蔵を凌ぐほどの活躍を見せるようになったのは、1960年代に入って主演した『悪名』シリーズや『座頭市』シリーズがヒットしてからのことであった。鈴木晰成は、勝は「70〜80本撮って何ひとつ当たらん状態が続いた後、『悪名』でようやく使いものになった」と述懐している。また田中徳三によると、1960年の『不知火検校』で野心的な悪僧を演じて絶賛されるまで勝の出演作は客入りが悪く、映画館主からはなぜあの俳優ばかりを使うのかという苦情が寄せられるほどだったという。1959年当時の状況について勝は、「番付が違う。雷ちゃんはもうすぐ大関、横綱になるのが分かってたわけだから。おれのほうは、三役になれるかなれないかというところ」と振り返っている。 「勝」と「雷」を掛け合わせて「カツライス」と呼ばれるまでになった大映の「二枚看板」市川雷蔵と勝新太郎は、その容姿や芸風が大きく異なることから比較の対象とされることが多く、2人はライバル関係にあると一般には思われていた。しかし「勝っちゃん」「雷ちゃん」と互いを呼び合う2人の仲は、関係者によると決して悪いものではなく、むしろ親しい関係にあったという。そもそも雷蔵は、勝の妻である中村玉緒とは、玉緒の父が関西歌舞伎の二代目中村鴈治郎という関係もあって、彼女が幼少時から親交があった。 作家の村松友視は、「大きい役とは縁がなく、門閥と因襲にしばられる歌舞伎界で、悶々とした日々をすごし」た雷蔵と、歌舞伎界において裏方である長唄三味線の出身である勝には、ともに「一種のコンプレックスが、解決すべき重大な問題としてあった」のであって、「同じようなエネルギー源となる要因」を持っていたのだと指摘している。 俳優としての比較 雷蔵は台本が完成するまでは作品について色々と意見を言う性格で、「ゴテ雷」と呼ばれた。ただし一度納得すると不平や愚痴を言うことはなく、撮影に入ってから意見を言うこともなかった。一方、勝は台本の段階では何も言わず、撮影現場で意見をするタイプで、台本とは全く違う演技をしてスタッフを困らせることもしばしばあった。 井上昭によると、雷蔵は監督の演出方法に合わせて役を演じることができた。そのため、たとえば同じ眠狂四郎でも監督が違うと匂いや味が違うのだと述べている。一方の勝の場合は、監督が違っても「座頭市だったら、全部、勝ちゃんの座頭市」になると述べている。鈴木晰也も同様の意見を述べている。村松友視は、勝は「何をやっても勝新太郎のイメージ」になるタイプの俳優で、長谷川一夫や片岡千恵蔵らとともに日本の映画スターの本流に属するのに対して、雷蔵は役柄に応じて多彩に演じ分ける、日本の映画スターの中では異色の存在であったと分析している。 両者の主演作品で監督した田中徳三は、両者の殺陣を比較して、雷蔵については「腰から下がきまらない点はあるが、それでも十分にリアルな立ち回りもできる人」とおおむね肯定的な評価を与えている一方で、「勝ちゃんが巧すぎる」として勝に軍配を上げている。 人物像の比較 池広一夫によると、勝は嫌いな相手に対しても「一応調子を合わせる」ことができたが、雷蔵の場合は「嫌いな人は徹底的に嫌う」タイプで、面と向かって「顔も見たくない」という態度をとったという。池広によると、雷蔵が特に嫌ったのは仕事がいい加減な人間だった。 大映映画の多くで美術監督をつとめた西岡善信は、映画関係者との人付き合い方について、勝が俳優や会社の偉いさんと飲みに行くタイプだったのに対し、雷蔵は裏方や若輩者と交流するタイプだったという。田中徳三も、雷蔵はスタッフの面倒見がよく、しばしば自宅へ招いたり一緒に食事をするなどしていたと述べている。星川清司によると、雷蔵は「ネオンのけばけばしい店や有名な料亭」を好まず、「ごくふつうの料亭で格式ばらずに」、「真正直に映画論や人生論をたたかわした」。 雷蔵の『眠狂四郎炎情剣』と勝の『座頭市二段斬り』をほぼ同時期に手がけた撮影監督の森田富士郎は、両者の性格について、雷蔵は真面目で直線的だが、勝は直感的で点をあちこちに散らばめたような行動様式だったと述べている。
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