創部「東京高師徒歩部から競技部へ」(1902-1929)
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「筑波大学陸上競技部」の記事における「創部「東京高師徒歩部から競技部へ」(1902-1929)」の解説
そして翌1902年(明治35年)、校友会に徒歩部と游泳部が加えられ、そのうちの徒歩部が筑波大学陸上競技部の前身である。当時まだ「陸上競技」という言葉は存在しなかったのである。嘉納校長は「徒歩主義」を奨励し、1904年(明治37年)に秋の遠足を長距離競走に、1908年(明治41年)には春の遠足も長距離競走に変更、約600人の全校生徒が参加する大会とした。こうした雰囲気から1906年(明治39年)10月に生徒有志が「歩行術研究会」を結成して神授練体歩行法を学習し、徒歩部員が東京帝国大学・第一高等学校(ともに現・東京大学)・学習院・駒場農学校(現・東京大学農学部)の運動会に出場するなど対外試合に参加するようになった。菅野新七が大阪毎日新聞主催の神戸大阪間マラソン大競争に出場して5位に入賞するなど頭角を現す選手が出てくるが、部全体としては弱小で、東大運動会などに出場すれば最下位が定番で、1910年(明治43年)秋の校内長距離走では徒歩部員でない者に優勝を奪われる始末であった。そのような状況下で入部したのが、金栗四三であった。 金栗が入部した頃の徒歩部の練習メニューは、全員そろって東京高師の校庭から巣鴨を経由して板橋方面への往復1里(≒3.927 km)を24 - 25分のゆっくりとしたペースで駆けるというもので、金栗のように高みを目指す選手には満足のいくものではなかった。そこで金栗は自主的に朝練に取り組み、菅野から伝授された「脂抜き走法」を実践するなどして鍛錬し、羽田運動場で開かれた1912年ストックホルムオリンピックの予選会で25マイル(≒40.23 km)のマラソンで2時間32分45秒の世界新記録を打ち立て、短距離走の三島弥彦(東大)と共に日本初のオリンピック選手に決まった。このマラソンには金栗のほかにも東京高師から橋本三郎と野口源三郎が出場しており、それぞれ5位、4位となっている。金栗はオリンピック本番で熱中症のため途中棄権となったが、その後も2度オリンピックに出場し、卒業後も永らく徒歩部の指導に当たった。金栗の後輩・野口源三郎は第1回日本選手権(1913年=大正2年)を棒高跳で、第3回極東選手権(1917年=大正6年)を十種競技で優勝した後、東京高師の教授として母校に戻り陸上競技部長に就任した。 こうして長距離走での活躍から始まった徒歩部は1915年(大正4年)以降、数年に渡って日本の長距離界の上位を独占するようになり、この頃から短距離走や他の種目の競技力も向上を見せるようになった。1918年(大正7年)11月25日には東京帝大・東京高師対抗陸上競技会が開催され、引き分けに持ち込んでいる。この両校の対校戦が発展して翌1919年(大正8年)に関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)の前身となる東都専門学校連合競技大会の第1回大会が開かれ、関東学生陸上競技連盟(関東学連)もこの時発足した。1920年(大正9年)、金栗・野口と明治大学競走部の沢田英一の3人が企画した第1回東京箱根間往復大学駅伝競走が四大専門学校対抗駅伝競走の名で開催され、東京高師が優勝を果たした。同年、全国専門学校連合競技会の名で開催された第2回関東インカレでは前回優勝した早稲田大学を4点差でかわして優勝した。なお、この頃に徒歩部から「競技部」へ改称している。 1928年(昭和3年)5月、第1回日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)が明治神宮外苑競技場で開かれ、東京高師は早大・慶大・京大・東大に次ぐ5位となった。翌1929年(昭和4年)5月の第2回日本インカレでは早大・慶大に次ぐ3位に順位を上げた。国内の学生大会だけでなく、国際大会においてもオリンピックや極東選手権に多くの学生が派遣され、1924年(大正13年)のパリオリンピックには東京高師陸上競技部長の野口源三郎が監督として派遣された。
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