第3回極東選手権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 20:25 UTC 版)
「日本のバレーボール」の記事における「第3回極東選手権」の解説
1917年5月8日から17日にかけて、東京芝浦で第3回極東選手権が開催された。開催国でもあるということから、ぜひともバレーボールのチームをこの大会に出場させなければならないということになったが、当時はこのバレーボールを専門にやっている者がおらず、そのチームの編成には非常に苦心したといわれる。日本体育協会はバレーボールに最も精通しているブラウンにチーム編成を依頼し、ブラウンは東京、横浜、大阪、神戸などのYMCAからバスケットボール選手、陸上競技選手などの教え子のうち、バレーボールを楽しんだ経験のある者を集めて、急造のピックアップチームを編成した。このような事情でメンバーはボールの扱い方を知らず、攻撃法はまだ見たことがなく、ただボールを打ってネットを越せればよいというレベルであった。試合の結果は当然ながら、中国対日本が21-4、21-2で中国が勝利し、フィリピン対日本が21-7、21-0でフィリピンが勝利した。試合は大敗したものの、各地からこの試合を観戦に集まった体育指導者が、初めて見るバレーボールに大きな興味を持ち、帰郷して広めたのが、日本でバレーボールが広く一般的になり普及した原因である。その一人で、当時広島師範学校(現広島大学)の武道教師だった河津彦四郎は体育教科にバレーボールを取り入れるなど、教え子の多田徳雄らとバレーボールを研究した。ただし、一般レベルでは日本のバレーボールは全くの日陰者の境遇におかれ、ほとんどスポーツ界から忘れ去られた。同じく世間から閑却されたバスケットボールがそれでも抑えがたい勃興の熱と力をひそかに養って行き進歩の跡を示したのに反し、以後4年の間、バレーボールは局地的に細々と命脈を保った。
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