前期新人会(1918 - 21)
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「新人会」の記事における「前期新人会(1918 - 21)」の解説
新人会結成の背景にあるのは、第一次世界大戦期に起こったロシア革命や米騒動など国内外での民衆運動の高まりに触発された学生の動きである。 結成の直接のきっかけは、1918年10月の京大労学会との東西両大学連合演説会と同年11月の吉野作造と右翼団体「浪人会」の立会演説会である。後者では参加した学生の支持もあって演説会が吉野の圧倒的勝利に終わった後、吉野の指導下で「普通選挙研究会」で活動していた東大緑会(法科の学生自治会)弁論部委員の赤松克麿・宮崎龍介・石渡春雄らが1918年12月7日(12月5日説もある)新人会を結成した。赤松が起草した新人会の綱領は次のとおりである。 一、吾(わが)徒は世界の文化的大勢たる人類解放の新気運に協調し之が促進に努む 一、吾徒は現代日本の合理的改造運動に従ふ さらに同じく宮崎の弟子であった麻生久を中心に社会問題研究を行っていた大卒者グループの「木曜会」(麻生の他には佐野学・棚橋小虎・山名義鶴・野坂参三ら)も合流した。 会員は新人会本部に合宿し、社会主義思想の紹介などの啓蒙活動を行った。講演会・地方遊説などによる全国的オルグ(組織活動)を進めて各地の大学・専門学校の学生を新思想へと結集させ、東京・京都・福井・広島・熊本・秋田・金沢・能登・大坂・佐世保・小倉に支部を置いた。実践活動として普通選挙運動に参加し、また「ヴ・ナロード」(人民の中へ)の旗印のもと、工場地帯・労働者街に生活し労働者への啓蒙活動を精力的に進めた。そして大日本労働総同盟友愛会の中の急進的分子と結びつき、1919年2月には東京亀戸の永峰セルロイド工場に渡辺政之輔(のちの日本共産党指導者)・出井喜作・庵沢義之を中心とする分会を設け、これが「新人セルロイド工組合」(全国セルロイド職工組合 / 同年5月6日結成)に発展した。 労働運動との関わりが強くなると麻生・赤松・棚橋らのように職業的運動家になる者が増加し、この結果、日本労働総同盟を中心とする直接運動に参加する「実践派」と、社会改造の理論化を進めようとする「学究派」との対立が生じた。また当時の社会運動の発展・分化に対応する必要から、1921年11月30日には会を在学生のみの団体に改組する決定がなされ、いわゆる「前期新人会」は終焉することになった(翌1922年4月には機関誌『ナロオド』も終刊となった)。「実践派」卒業生の中でも赤松・宮崎らは無産政党指導者として、社民右派を形成することになった。学究派の卒業生は蠟山政道・三輪寿壮・河野密らを中心に翌1922年社会思想社を結成して同年4月には『社会思想』を創刊、概ね社民中間派への流れへと進んだ。
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