制作時期と筆者とは? わかりやすく解説

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制作時期と筆者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 06:29 UTC 版)

大坂夏の陣図屏風」の記事における「制作時期と筆者」の解説

制作時期は、生々しい描写から陣後まもなくだと推測される福岡藩故実によれば合戦参加した黒田長政が、この戦い記録するために筆頭家老黒田一成、または家臣竹森貞幸 に命じて作成したものとされる。ただ、長政は右隻第2扇目中央やや上に、あまり目立たない形で描かれている。異説として右隻第3目上部にこの戦いで討ち死に遂げた本多忠朝奮戦する様子描いていることから本多家作られそれが婚礼輿入れ調度一つとして黒田家もたらされたとする説もある(黒田吉之本多家の姫が輿入しているが、光之が編纂させた黒田家故実成立時期重なっているためにこの説の信憑性は薄い)。 描いたのは「八郎兵衛」なる絵師一人描いたとする説や、土佐派学んだ「久左衛門」、両者折衷する説、右隻と左隻で保存状態異なり(左隻のほうが状態が良い)、描写微妙な差異指摘されることから、左隻はやや後に別の絵師によって作られたとする説や、同一工房内で複数絵師手掛けたとする説がある。左隻には岩佐又兵衛風が認められ又兵衛制作に関わった可能性指摘されている。制作命じられ黒田一成は、元々荒木村重家臣息子で、岩佐又兵衛の子(あるいは孫)という繋がり考えると、又兵衛制作に関わった可能性はある。いずれにしても江戸時代前期から20世紀半ばまでは黒田家所蔵品だったが、1958年昭和33年黒田長礼が本屏風大阪市売却し、同市の所有大阪城天守閣保管となった。 (上図説明)城の南、天王寺岡山方面から攻め徳川主力と、これを迎え撃つ豊臣方が、今まさに総力をあげて激突する場面画面ほぼ中央四天王寺石鳥居右手上下に結ぶ線が両軍最前線である。鳥居の下、茶臼山にいる赤備え部隊真田信繁隊で、これを前日家康から叱責受けて雪辱燃え松平忠直隊が迎え撃つ。そのすぐ上では、先陣踊りでた本多忠朝先駆けし毛利勝永隊の一部交戦し、更にその上井伊直孝隊も毛利勢と戦わせる。またその上で岡山口の攻防移り大野治房隊と前田利常隊が銃撃戦をしている。 総大将徳川家康は第1扇目中央徳川秀忠同じく第1扇目上に、両者とも金扇馬印と共に描かれている。一方第5扇目中央右、金瓢箪など豊臣家馬印が並ぶ豊臣秀頼本陣に秀頼の姿は無い。大坂城大天守の右には千畳敷御殿描かれその間にある謎の四層は、家康がかつて作り関ヶ原の戦いがおこる原因一つとなった西の丸天守敢えて描き込んだ考えられる大天第34層の窓には、豊臣家最期を悲しむ女達がおり、城の下には北へ避難しようとする群衆の姿が見られ、左隻の恐慌状態へと続く。

※この「制作時期と筆者」の解説は、「大坂夏の陣図屏風」の解説の一部です。
「制作時期と筆者」を含む「大坂夏の陣図屏風」の記事については、「大坂夏の陣図屏風」の概要を参照ください。

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