別れの場面における主語の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 08:09 UTC 版)
「伊豆の踊子」の記事における「別れの場面における主語の問題」の解説
主人公と踊子が乗船場で別れる場面に以下のような一文があるが、主語が省かれているため、〈さよなら〉を言おうとして止めて、ただ〈うなづいた〉のが主人公と踊子のどちらであるのか、川端の元へ読者からの質問が多数寄せられたという問題点があった。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}私が縄梯子に捉まらうとして振り返つた時、さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。 —川端康成「伊豆の踊子」 これについて川端は、主語は〈踊子〉であるとし、以下のように答えている。 はじめ、私はこの質問が思ひがけなかつた。踊子にきまつてゐるではないか。この港の別れの情感からも、踊子がうなづくのでなければならない。この場の「私」と踊子との様子からしても、踊子であるのは明らかではないか。「私」か踊子かと疑つたり迷つたりするのは、読みが足りないのではなからうか。「もう一ぺんただうなづいた」で、「もう一ぺん」とわざわざ書いたのは、その前に、踊子がうなづいたことを書いてゐるからである。 — 川端康成「『伊豆の踊子』の作者」 そして川端は、問題の箇所をよく読み返してみると読者に誤解を与えたのも、主語を省いたため惑わせることになったかもしれないとしながらも、以下のように説明している。 「さよならを言はうとした」のも、「うなづいた」のも、「私」と取られるのが、むしろ自然かもしれない。しかしそれなら、「私が」ではなくて「私は」としさうである。「私が」の「が」は、「さよならを言はうとした」のが、私とは別人の踊子であること、踊子といふ主格が省略されてゐることを暗に感じさせないだらうか。 — 川端康成「『伊豆の踊子』の作者」 なお、英訳ではこの部分の主語が、“I”(私)と誤訳されてしまっている。そして川端はあえて新版でも、この主語を補足しなかった理由については、その部分が気をつけて読むと、〈不用意な粗悪な文章〉で、〈主格を補ふだけではすまなくて、そこを書き直さねばならぬ〉と思えたことと、『伊豆の踊子』が〈私〉の視点で書かれた物語であることの説明として以下のように語っている。 「伊豆の踊子」はすべて「私」が見た風に書いてあつて、踊子の心理や感情も、私が見聞きした踊子のしぐさや表情や会話だけで書いてあつて、踊子の側からはなに一つ書いてない。したがつて、「(踊子は)さよならを言はうとしたが、それも止して、」と、ここだけ踊子側から書いてあるのは、全体をやぶる表現である。(中略)主格の一語を補ふだけですまなくて、旧作の三四行を書き直さねばならないとなると、私は重苦しい嫌悪にとらへられてしまふ。もし仔細にみれば、全編ががたがたして来さうである。 — 川端康成「『伊豆の踊子』の作者」 高本條治は、この踊子の主格問題に関する川端の、〈全体をやぶる表現〉という言及について、〈私〉が見た風に書くという「語りの視点」を全篇通して一貫させるべきだったというのが川端の「反省的自覚」だったとし、この小説を軽く読み流すのではなく、〈私〉に同化し感情移入しながら「解釈処理」を続けた読者にとっては、物語の終盤でいきなり、たった一箇所だけ、「語彙統語構造に表れた結束性の手がかりに従う限りにおいて、〈私〉以外の人物と同化した視点で語られたと解釈できる部分」が混入しているのは戸惑いであり、その「語りの視点」の不整合性に気づく認知能力を持つ読者にとって、「川端が犯した不用意な視点転換」は、重大な解釈問題として顕在化されると論じている。 三川智央はこれに比して、やや違った論点からこの視点転換問題をみて、通常の語り手としての〈私〉の次元でならば、問題個所は、「(踊子が)何かを言おうとしたようだが、……」あるいは「別れのことばを言おうとしたようだが……」という風に推測的な文言になるはずだとし、川端がほとんど無意識的に〈(踊子は)さよならを言はうとした〉と断定表現したのは、主人公の〈私〉が一種の「狂気」の状態にあり、「踊子との間に暴力的ともいえる一方的なコミュニケーションを夢想しているにほかならない」と解説しながら、このことは同時に、物語世界内の〈私〉と、「語り手である〈私〉の自己同一性の崩壊=〈私〉そのものの崩壊」をも意味していると論考している。 そして三川は、この場面では、踊子との「離別」と共に、「まるでそれを阻止するかのように〈私〉と踊子の「心理的な一体化」が示されるとし、それはあくまで「現実世界の解釈コードでは認識不能な『事実』」で、「〈私〉の踊子に対する一方的な一体化の夢想」は「〈私〉の意識の肥大化と『他者』である踊子の抹殺」が前提となっているが、読者側はその〈私〉の「暴力性」を「解釈コードの組み替え」により、「抒情的空間」といったものとして「物語空間を辛うじて受け入れることになる」と考察しつつ、通常の意味での「語り手」という存在を打ち消してしまう作品自体の不安定な構造を支えている力を、「互いに異なる志向性を帯びた複数の《語り》の葛藤によって生じるダイナミズム=《語り》の力」と呼び、以下のように諭をまとめている。 少なくとも『伊豆の踊子』は、自己の「過去の事実」を先行する物語内容として「語り手」という人格的言表主体が物語行為を遂行するという一般的な一人称小説の構造などには還元できない、むしろそのような主体を疎外する「語り」そのものの「力」によって支えられているのであり、多重的な「語り」の葛藤によって生じた軌跡として形を与えられているに過ぎないのだ。そこでは既に、物語内容の物語言説に対する優位性という仮構は崩壊してしまっている。 — 三川智央「『伊豆の踊子』再考――葛藤する〈語り〉と別れの場面における主語の問題」
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