初代西沢道夫とは? わかりやすく解説

初代・西沢道夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 06:34 UTC 版)

ミスタードラゴンズ」の記事における「初代・西沢道夫」の解説

初代ミスタードラゴンズ」とうたわれる西沢道夫は、戦前投手時代長身から投げ下ろす快速球武器活躍し戦後打者転向後は細身バット華麗な打撃フォーム強打者として活躍し人気集めた戦前投手として14歳プロ入りし(野球殿堂博物館記録より)、養成選手としてプロ入りしてから2年目1937年9月5日中日球団前身名古屋軍選手として初の公式戦試合出場果たした。この時の年齢満年齢16歳4日)は日本プロ野球史上最年少記録となっている。1リーグ時代1940年にはシーズン20勝を挙げたほか、1942年5月24日には後楽園球場にて開催された対大洋戦でプロ野球史上最長となる延長28完投311球)を達成した。さらに同年7月18日には対阪急戦(後楽園球場)にてプロ野球史上9人目14番目)のノーヒットノーラン達成したが、1943年には太平洋戦争戦局悪化により日本軍応召され、戦前から悩まされていた右肘痛加えて兵役従事したことで利き手右肩痛めてしまい、打者転向余儀なくされたが、結果的にこの打者転向が「長打西沢」として名を残すきっかけとなった終戦後日本引き揚げてからは「名古屋軍」から改称した中部日本軍プレーしていたが、1946年シーズン途中にはゴールドスター内野手として移籍し1949年には天知俊一監督誘われる形で中日ドラゴンズ復帰した中日復帰1年目1949年には37本塁打放ち脚光を浴びると、翌1950年には日本記録となるシーズン満塁本塁打5本を含め自己最高の46本塁打記録したほか、1952年には打率.353・98打点首位打者打点王獲得して二冠王輝き1954年には主軸打者として球団初のリーグ優勝日本一貢献した1955年オフには失踪騒動起こすなどナイーブな一面もあったが、年間20勝・40本塁打それぞれ1人達成した選手西沢日本プロ野球史上唯一である。(二刀流大谷翔平とは異なり投手打者同時進行ではない。) 引退後野球評論家ラジオ解説者など経て打撃コーチとして中日復帰し監督代行監督1964年6月8日 - 1967年)も務めたが、1970年脳血栓倒れて以降長い闘病生活送っていた。1977年には野球殿堂入り果たしたが、同年12月18日56歳死去した。なお現役時代1948年 - 1958年およびコーチ・監督時代1963年 - 1966年着用した背番号15中日球団永久欠番指定されている。

※この「初代・西沢道夫」の解説は、「ミスタードラゴンズ」の解説の一部です。
「初代・西沢道夫」を含む「ミスタードラゴンズ」の記事については、「ミスタードラゴンズ」の概要を参照ください。

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