初代・西沢道夫
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「ミスタードラゴンズ」の記事における「初代・西沢道夫」の解説
「初代ミスタードラゴンズ」とうたわれる西沢道夫は、戦前の投手時代は長身から投げ下ろす快速球を武器に活躍し、戦後の打者転向後は細身のバットと華麗な打撃フォームで強打者として活躍し人気を集めた。 戦前に投手として14歳でプロ入りし(野球殿堂博物館の記録より)、養成選手としてプロ入りしてから2年目の1937年9月5日に中日球団の前身・名古屋軍の選手として初の公式戦試合出場を果たした。この時の年齢(満年齢16歳4日)は日本プロ野球史上最年少記録となっている。1リーグ時代の1940年にはシーズン20勝を挙げたほか、1942年5月24日には後楽園球場にて開催された対大洋戦でプロ野球史上最長となる延長28回完投(311球)を達成した。さらに同年7月18日には対阪急戦(後楽園球場)にてプロ野球史上9人目(14番目)のノーヒットノーランを達成したが、1943年には太平洋戦争の戦局悪化により日本軍に応召され、戦前から悩まされていた右肘痛に加えて兵役に従事したことで利き手の右肩を痛めてしまい、打者転向を余儀なくされたが、結果的にこの打者転向が「長打の西沢」として名を残すきっかけとなった。 終戦後に日本へ引き揚げてからは「名古屋軍」から改称した中部日本軍でプレーしていたが、1946年シーズン途中にはゴールドスターへ内野手として移籍し、1949年には天知俊一監督に誘われる形で中日ドラゴンズへ復帰した。中日復帰1年目の1949年には37本塁打を放ち脚光を浴びると、翌1950年には日本記録となるシーズン満塁本塁打5本を含め自己最高の46本塁打を記録したほか、1952年には打率.353・98打点で首位打者・打点王を獲得して二冠王に輝き、1954年には主軸打者として球団初のリーグ優勝・日本一に貢献した。 1955年オフには失踪騒動を起こすなどナイーブな一面もあったが、年間20勝・40本塁打をそれぞれ1人で達成した選手は西沢が日本プロ野球史上唯一である。(二刀流の大谷翔平とは異なり、投手・打者の同時進行ではない。) 引退後は野球評論家・ラジオ解説者など経て打撃コーチとして中日に復帰し、監督代行・監督(1964年6月8日 - 1967年)も務めたが、1970年に脳血栓で倒れて以降は長い闘病生活を送っていた。1977年には野球殿堂入りを果たしたが、同年12月18日に56歳で死去した。なお現役時代の1948年 - 1958年およびコーチ・監督時代の1963年 - 1966年に着用した背番号15は中日球団の永久欠番に指定されている。
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