再鑑定依頼
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福岡高裁における控訴審第1回公判は、1990年(平成2年)3月14日に開かれた。控訴審で弁護側は、「自白」の任意性・信用性、科警研の毛髪鑑定、輿掛の首・左手甲の傷の3点を中心に一審判決を覆す立証を試みた。5月28日の控訴審第2回公判では早くも被告人質問を行い、同年12月17日の控訴審第5回公判までをかけて「自白」当時の取り調べ状況や家族との面会と引き換えに「自白」に応じた過程などを質問して、捜査の違法性と「自白」が強要されたものであることを明らかにしていった。 「自白」の任意性の審理と並行して、弁護団は科警研の毛髪鑑定の信用性の問題に取り組んだ。同年7月28日、岩田弁護士から弁護団に、福井女子中学生殺人事件でも吉村悟弁護士が中心になって科警研の毛髪鑑定の信用性を争っているという情報がもたらされた。両事件の毛髪鑑定は、鑑定時期こそ6年の開きがあったものの、鑑定人も同じで、鑑定手法も全く同じ「形態学的検査」「血液型検査」「分析化学的検査」の3つからなるものであった。弁護団は早速吉村弁護士を知っていた西山弁護士を通じて資料を取り寄せ、たまたま9月21日に大分地裁に出廷する予定があった吉村弁護士を招いて勉強会を行った。吉村弁護士は、毛髪鑑定に関する国内外の大量の文献を示し、形態学的検査で個人識別が可能と考えているのは科警研だけであること、分析化学的検査では同一人でもデータの変動が大きく(個人内変動性)他人間でもあまり違いがないこと(個人間恒常性)を指摘して、科警研の毛髪鑑定が信頼できないものであると説明した。同年11月16日・17日と翌1991年(平成3年)1月7日の弁護団会議でも吉村弁護士から直接助言を受け、吉村弁護士の「弁護側として科警研の鑑定結果を覆す再鑑定を行ったほうが良い」という助言をもとに、弁護団は岩田弁護士が作成した「元素分析批判」「形態学的検査批判」という科警研の毛髪鑑定の矛盾点を指摘する2つの文書を手に再鑑定を依頼する専門家を探していった。とはいえ、科警研が鑑定した毛髪は鑑定の過程で全量を費消しており、再鑑定は科警研の鑑定データを基に分析し直すという形をとるよりほかなかった。 1990年(平成2年)11月19日、岩田弁護士は九州大学医学部法医学教室の永田武明教授を訪問し、科警研の鑑定書と「元素分析批判」を持参して意見を求めた。永田教授は「元素分析批判の指摘は正しいと思う」と述べたが、「自分は毒物を専門とする法医学者であり、この内容であれば科学評論家か数理統計学者がふさわしい」という意見を示して再鑑定については固辞した。岩田弁護士はその足で大学の同級生であった九州大学工学部の香田徹助教授を訪ねて適任者を尋ねたところ、数理統計学の世界的権威として九州大学理学部の柳川堯助教授を紹介された。そのころ、徳田弁護士も別ルートで再鑑定を引き受けてくれる専門家をあたっていた。徳田弁護士は、11月20日、中学校の同級生で野球部ではバッテリーを組んだ間柄の九州大学工学部の立居場光生教授を訪ね、やはり科警研の鑑定書と「元素分析批判」を持参して適任者を尋ねると、同じく柳川助教授が適任であろうとの返答を得た。 同年11月26日、徳田弁護士と岩田弁護士は、科警研の鑑定書と「元素分析批判」「形態学的検査批判」を持って柳川助教授を訪ねて意見を求めた。柳川助教授は、その場で科警研の毛髪鑑定の杜撰さを指摘し、12月には「統計的鑑定法」、翌1991年(平成3年)1月には「元素分析スペクトルパターンによる鑑定批判」と題する意見書を作成して弁護団に送付した。弁護団は意を強くし、1991年(平成3年)1月31日の第6回公判後に古田・徳田・安東・鈴木・西山・岩田・千野の7弁護士が柳川助教授に再鑑定を依頼した。柳川助教授は意見書は書いても再鑑定までするつもりはなかったようであったが、弁護団の懇願を受けて再鑑定を受諾した。 これとは別に、第6回公判で弁護団は被害者の首に巻かれたオーバーオールに付着していた体毛の鑑定を要求し、鑑定の結果、オーバーオールに付いていた体毛は血液型O型のものであることが判明した。さらに、遺体の司法解剖の鑑定書に何かが剥がされた形跡を発見して鑑定人に問い合わせたところ、当初の鑑定書には被害者の膣内に残されていた精液はA型またはO型であると記された付属説明文書が添付されていたことが分かった。被害者の陰毛に付着していた精液は輿掛と同じB型のものであったため、弁護団は複数犯による犯行を強く疑うようになっていった。
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