党における指導権
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「党における指導権」の解説
詳細は「ロベルト・ファリナッチ」、「アウグスト・トゥラーティ(英語版)」、および「アキーレ・スタラーチェ(英語版)」を参照 そのファシスト党内では非妥協派の第5代党書記長ロベルト・ファリナッチが選出されていたが、党中央の規律を無視する党支部の動きを抑える様に命じたムッソリーニの命令を十分に実行できず解任され、新たにアウグスト・トゥラーティ(英語版)が第6代党書記長に指名された。ムッソリーニの意を受けたトゥラーティ体制において党内の綱紀粛正が徹底され、改革に反対する10万名の党員が党籍剥奪処分とされた。合わせて党の役職も全て指導部からの任命制に党規約が変更され、それまで党内でのムッソリーニの位置付けは精神的指導者としての部分が大きかったが、大評議会の設立に続く党改革によって明確にムッソリーニを頂点とし、それを書記長と大評議会が補佐する集権的な政党となった。今やムッソリーニに対抗できるのは党諮問機関である大評議会と、その後見であるサヴォイア家のみとなった。 1929年、執務室を官邸として使われていたキージ宮から、大評議会が設置されていたヴェネツィア宮の「両半球図の間」に移動させた。 1931年、第8代書記長アキーレ・スタラーチェ(英語版)の時代に更なる党改革が進められた。それまで国内の政治的エリートを選抜するという指導政党としての路線が改められ、「大衆の中へ」をスローガンに国民に新規入党を奨励する大衆政党へと転進した。入党資格の大幅な緩和が行われ、公務員、教師、士官将校に至っては入党が逆に義務になり、入党を拒否した者は解任された。歴代書記長で最もムッソリーニに盲目的であったスタラーチェ時代に進められた大衆化政策でファシスト党員は260万名以上に膨れ上がった。 労働者の福利厚生を国営化するために設立された労働者団体ドーポ・ラヴォーロ(労働後)協会(英語版)(OND)、伝説的に語り継がれる愛国者の少年バリッラ(ジョヴァン・バティスタ(英語版))の名を冠した少年・少女組織バリッラ団(英語版)(ONB)など福祉や教育、青少年団体などの分野で、党の協力組織も相次いで設立された。ドーポ・ラヴォーロ協会には380万名、バリッラ団は170万名がそれぞれ加入しており、新規入党者に加えて準党員を含めると党員は約600万名以上に達している。ただナチスがそうであったように、古参党員の中には権力掌握後に入党した人間を党の略称(PNF)になぞらえて「家族のためのファシスト」と呼んで軽蔑する傾向にあった。 1932年10月28日、ローマ進軍十周年を記念して国内のモダニズム芸術家による協力の下にファシスト革命記念展が盛大に開催され、翌年の記念日には首都ローマにヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂からコロッセウムまでを繋げた大通りである皇帝街道(イタリア語版)を開通させた。独裁制と一党制によって牽引される全体主義は必然的に指導者への個人崇拝を生み出した。政府宣伝を通じて独裁者ムッソリーニは国家・民族の英雄として神格化され、神話とも言うべきプロパガンダが展開された。
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