修辞学についてのクインティリアヌス
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「クインティリアヌス」の記事における「修辞学についてのクインティリアヌス」の解説
クインティリアヌスの時代には、修辞学は主に3つの面から成っていた。理論・教育・実践である。『弁論家の教育』は何ら独創性を主張するものではない。クインティリアヌスはこの本をまとめるのに、多くの文献から引くことにした。折衷主義と言えるかも知れないが、たとえ他に較べてキケロが突出しているにしても、何か特定の学派に固執することは避けた。さらに法則を短く簡潔なリストにすることも避けた。修辞学の研究と技術は切り詰めることが出来ないと感じたのだろう。それゆえに『弁論家の教育』は12巻という膨大なものになったのに違いない。 ローマの修辞学の隆盛は、紀元前1世紀中頃からクインティリアヌスの時代までである。しかし、クインティリアヌスの時代に人気のあった弁論術のスタイルは、「白銀期」と呼ばれるもの、つまり、明瞭さや正確さ以上に華美な飾り付けを好むものであった。『弁論家の教育』は多くの点でその傾向に反するものとして読むことができる。それは、より単純で、より明瞭な言語への回帰を推奨していた。「平民の出の男……親しみやすさを持つ地に足のついた現実主義者」だった皇帝ウェスパシアヌスの影響もあるのかも知れない。ウェスパシアヌスは過度と行き過ぎを嫌い、クインティリアヌスへのパトロネージュにもその言語観が影響を与えたのかも知れない。クインティリアヌスが理想のスタイルの主唱者と見なしたのはキケロであった。前世紀、キケロの遙かに簡潔なスタイルは一般的だった。このことは自然と技術についての解説で述べられている。クインティリアヌスは明らかに自然を、それもとりわけ言語において好み、同時代人に人気のあった極端な飾り付けを嫌った。複雑の度を過ぎたスタイルを追求する中で、自然な言語と自然な思考の道理から逸脱したことは、弁論家にもその聴衆にも混乱を生み出していた。「自然を自分の指導者としてそれに従い、人目を引くスタイルに気を遣うことをしなければ、並の弁論家であっても難しい問題を扱うことができる」。 『弁論家の教育』は実質、修辞学の技術面の包括的教科書である。第2巻11章から第6巻の最後にかけて、クインティリアヌスは、自然の道理、自然と技術の関係、発案、証明、感情、そして言葉などの話題をぎっしり詰め込んだ。そこで論じられた中で最も有名なものは、転義法とSchemeについてで、第8巻と第9巻に書かれている。「転義法はある語を別の語に置き換えることを含み、Schemeは言葉の指示あるいは意味のどちらかに変換する必要が必ずしもない」。 転義法の一例がメタファーであり、言葉の意味の変換である。一方、文彩は言葉に新しい面または大きな感情的価値を与え、次の2つに分かれる。1つは思考の文彩で、それは証明をより力強く見せるか、あるいは優雅さや飾りを付け足す。もう1つは言葉の文彩で、これはより細かく、「その中で言葉の性格が形になる文法的なものと、その中で言葉の所在が主要な要素となる修辞学的なもの」に分かれる。 『弁論家の教育』の素晴らしい部分は、もちろん、修辞学の技術面を扱っている部分で、アリストテレスの『弁論術』やキケロの『弁論家について』などと並んで、修辞学についての古代世界を代表する著作の1つである。弁論術の要素は次の5つに分かれる。発想(inventio)、配列(dispositio)、措辞(elocutio)、記憶(memoria)、口演(pronuntiatio)である。おのおのの要素、とりわけ最初の3つのために、クインティリアヌスは論点の発展と表現の中で、習得され・考察されなければならない要素すべてを徹底的に解説した。この徹底して実用的な叙述は、弁論家として・教師としてのクインティリアヌスの経験が反映され、多くの点で、この本は、ギリシアとローマの修辞学理論の完成と見なされるべきだろう。 この本でも他の論文でも、クインティリアヌスは一貫して、理論的なものよりも、むしろ実践的で応用できる面にこだわり続けた。現代の多くの理論家と違って、クインティリアヌスは「比喩的言語を言語学的な指示の定着に対する脅威として見てはいなかった」。言葉の指示的な使用は常に第一次の意味を持ち、比喩的な言語の使用はごく稀に追加されるもので、決して置き換わるものではないというわけである。
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