信者死亡事件、富士総本部建設(1988年下期)
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「オウム真理教の歴史」の記事における「信者死亡事件、富士総本部建設(1988年下期)」の解説
1988年(昭和63年)9月22日、在家信者死亡事件が発生。この事件に際して麻原は「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神の示唆だな」とつぶやいたという。 1988年10月頃、富士宮市人穴に総本部道場が建設された。1988年10月2日、富士山総本部で「いよいよオウムがヴァジラヤーナのプロセスに入ってきた。このヴァジラヤーナのプロセスは善も悪もない。ただ心を清め、そして真理を直視し,目の前にある修行に没頭し,後は神聖なるグルのエネルギーの移入によって成就する」「金剛乗の教えというものは、もともとグルというものを絶対的な立場に置いて,そのグルに帰依する。そして,自己を空っぽにする努力をする。その空っぽになった器にグルの経験あるいはグルのエネルギーをなみなみと満ちあふれさせる。つまり,グルのクローン化をする。あるいは守護者のクローン化をする。これがヴァジラヤーナだ」と麻原は説いた。1988年10月28日の富士本部説法で、「当初は凡夫の救済が私の役割だと考えきた、しかし近頃変わってきた、動物化した、餓鬼化した、地獄化したこの人間社会の救済は不可能かもしれないなと。(略)新しい種、霊性の高い種を残すことが私の役割だと考えるようになってきた。」と、凡夫の消滅、大量ポアの萌芽がある。 この1988年秋頃より麻原は体調を崩すことが多くなり、健康面に不安を感じ始め「自分が死んだら、教団をどうするのか」あるいは「私は長くてあと5年だ」「死にたい」などと洩らすようになる。肝硬変や肝臓がんだと大騒ぎになったりもする。高弟の前でも「もう死のうかな」と呟き、新実智光は「お供します」、早川紀代秀は「困ります」、上祐史浩は「残って救済活動をします」と答え、妻の松本知子は「勝手にすれば」と言ったという。3女松本麗華は、この頃から「麻原の死への願望は強まった」と考えている。解脱者が多くなりオウム真理教が世界宗教へと変貌し救済ができるとの真剣な思いがあったが、弟子の修行が思うように進まず、通常通りの方法では人間界が救われないという否定的な認識が麻原彰晃に芽生えたと見ている。また岡崎一明も1988年秋頃に麻原が「私が死んだら、多分、マイトレーヤ(上祐)派とX派に分かれるだろうな。お前たち、どちらの派閥に付くか?」と訊いたり、1989年夏頃にも、「(麻原の死後)多分、女性大師のほとんどが自殺するだろうな、そして男性大師は対立するだろう」と自分の入滅後(死後)の教団を憂えたと証言している。 1988年11月17日深夜、名古屋支部の信者が自損事故に遭うと、麻原は富士のサティアンから集中治療室にいる信者の意識をコントロールし、「今意識を肉体に戻したぞ」と告げたので、病院に確認すると意識が戻っていた。それから数時間、麻原は意識の出し入れを繰り返した結果ポアと判断、その直後、病院から死亡の知らせが来た。上祐はこの時抗議したが、麻原は「生きていても修行できないじゃないか。功徳が積めないならポアするしかないんだよ」と弁明した。 1988年11月に麻原は遠藤誠一に、国家が宗教を禁止して圧力を加えようと警察がきたらどうすると問い、「警察が何人か来るよね」「警察ごと壊せばいい」「本署ごとポアしちゃえばいいんだよ」と、信徒らを破壊活動へ駆り立てるよう述べている。 1989年(平成元年)1月、麻原は「大乗だと間に合わない。救済の成功は核戦争を起こさせないことではない。資本主義と社会主義をつぶして宗教的な国を作る。オウム信徒以外は生き残らない」などと幹部に語った。
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