侵略を「解放」とみなす事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 13:23 UTC 版)
入江曜子は、国歌国旗法制定以後の日本を、「日本は戦争で悪いことをしたのではなかったと短絡する人たちを輩出した」とした上で、その傾向はいま「侵略」を「解放」と言い換える口当たりのいい国家主義的方向へ収斂されつつあると述べている。 この「解放」という言葉は、共産主義陣営国家が自由主義陣営国家に対して侵略を行った際に使用してきた用語である。たとえば、中華人民共和国によるチベット侵略を、中国側は「平和解放」と呼ぶ。他に、小島晋治と丸山松幸は、「人民解放軍、チベットのラサに進駐」と記す。 家永三郎は教師用の指導資料でベトナム戦争を「ベトナム人民の総決起により、ベトナム全土は解放され…前後して、カンボジア、ラオスも解放され…続いて南北ベトナムは統一され」と書いた。 尹健次は、朝鮮戦争を北からの視点で見ると「祖国解放戦争」と呼び、油井大三郎は、朝鮮戦争が韓国が北朝鮮を侵略した「北侵」、もしくは韓国が北朝鮮に軍事挑発を行い、それに対して北朝鮮が反撃を加えた「南侵誘導」を示唆、北朝鮮による「解放戦争」「統一戦争」と主張し、朝鮮戦争が北朝鮮による侵略戦争であることを否認した。 南ベトナム解放民族戦線の略称は「ベトコン」であったが、これは蔑称であるともされた。阿奈井文彦は、1965年2月16日付の朝日新聞では「ベトコン」が紙面に使われていたが、本多勝一のルポルタージュ『戦場の村』以降、正式名称で書かれるようになったのではないかと回想している。なお、山本夏彦は実態は「解放戦線」ではなく「共産軍」であり、岩波書店も朝日をはじめとする大新聞もこの嘘で読者を欺いたと断じている)。 進歩的文化人が寄稿することが多い岩波書店が発行している国語辞典『広辞苑』でも同様の書き換えが見られる。広辞苑の各版を比較分析した水野靖夫によると、日英同盟の説明文は、初版では「ロシヤのアジアへの侵出」となっていたが、第2版以降では「ロシアのアジア進出」に書き換わっている。意図的なものなのである。 なお、1968年にソビエト連邦がチェコスロバキアを「解放」していた当時、ソ連国内で用いられていた歴史教科書では、アレクサンドル・スヴォーロフ元帥がフランス革命戦争に乗じて行った地中海・北イタリア遠征について「ギリシャの島々を解放し土地の人々に自由を保障した。……ナポリを解放し、凱歌をあげてローマに入城した。北イタリアを解放した後、スヴォーロフはパリへの行軍を準備した」と記述していた。この「解放」という表現は日本国内にとどまらず、アメリカの著述家であるマーティン・ガードナーも使用していた。 なお、共産党を離党した人物の中には、「チェコ侵略」と書くものもあった。安東仁兵衛である。 また、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この誤報事件[要追加記述]の当事者(火付け役)であり、最後まで謝罪も訂正も行わなかった当の朝日新聞は、1985年9月8日付社会面のコラム『残留孤児』で、「東洋の小国が世界の大帝国に勝った、と日本が酔いしれた日露戦争は、中国東北部(旧満洲)に進入したロシア軍に日本が『危機感』を持ち、起きた」と記している。
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