作戦計画に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 06:51 UTC 版)
6月になり、対フランス戦の行方が見通せるようになり、ドイツの陸軍と海軍の作戦部は、それぞれお蔵入になっていた英本土上陸作戦の研究案を引っ張り出して、再検討を始めた。 6月30日、OKW主催の情勢検討会議が行われ、OKWのヨードル作戦部長が提出した対英戦略の選択リストには、以下の6つがあげられていた。 外交交渉(和平) 経済封鎖 恐怖(恐惶爆撃) 侵攻 間接アプローチ(ジブラルタル、エジプトなどイギリス本土以外の海外領土への攻撃) 防禦戦略(イギリスは放置し、動員を大幅に解除して国内経済基盤の強化) 海軍は、4月のノルウェー侵攻(ヴェーザー演習作戦)で、多くの艦艇が失われるか損傷しており、英本国艦隊に対して大幅に劣勢であったので、すくなくとも1940年中の上陸作戦実施には反対で、実施するのであれば、戦艦ビスマルクと戦艦ティルピッツが就役する見込みの1941年春が望ましいとした。海軍作戦部は、10万人を越える兵員と機材の輸送能力がそろうのは早くても8月であり、英仏海峡の海洋気象条件から上陸作戦実施が可能なのは9月末までで10月以降は不可とも指摘した。海軍は、経済封鎖と間接アプローチを支持していた。しかし、当時、大西洋で常時展開できるUボートの数は15隻程度 であり、経済封鎖を行うにはまったく不十分な数であった。 空軍のゲーリングは、経済封鎖は効果が出るまで時間がかかりすぎであり、また上陸作戦はコストがかかりすぎであり、既にダンケルクで敗れて弱体化しているイギリスには、空軍がオランダでやったように恐惶爆撃で抗戦意志を挫いて、和平交渉の場に引き出せる、と考えていた。 一方、陸軍内では、経済封鎖や空爆だけで戦争を終わらせることは出来ず、英本土が将来大陸反攻の基地になることが予測されるため、上陸作戦の支持者は多かった。 ヒトラーは、イギリス側との外交交渉余地を残すため、空軍には都市爆撃を禁じていたが、それ以外にドイツ側で和平交渉のための外交努力がなされていた記録は、ヒトラーの"平和か全面的破壊か”という恫喝調の7月19日国会演説 しか見つかっていない。明らかに、ヒトラーは、最初と最後の選択肢は選択しなかったようだが、明確に一つを選んだわけでもなかった。6月30日の会議では、ヒトラーは、ソ連侵攻作戦の研究を始めるようOKH(陸軍総司令部)に指示している。 海軍作戦部(SKL)のクルト・フリッケ少将によって纏められた海軍の上陸作戦案は、イギリスがダンケルクでの打撃から回復しきらないうちに、可能な限り早期に、英本土南東部へ狭い正面で上陸作戦を行うというものであった。 一方、OKHによる上陸作戦案は、7月13日にヒトラーに提示されたが、それは海軍からの情報が入っていない、輸送能力を考慮しないものであった。すなわち、ラムズゲートからライム湾までの8箇所に、13個師団(26万人)を2ないし3日の間に一挙上陸、第二波を含めると総計40個師団を上陸させるというものだった。 7月16日に、ヒトラーは、総統指令第16号を発し、その中で、英本土上陸作戦(アシカ作戦)の具体的な作戦計画の立案とその準備を8月中頃までに完了する事を命令した。 上陸作戦案については、輸送能力にみあった限られた上陸地点を主張する海軍案と、一挙に広範な上陸地点を主張する陸軍案で、両者の間で激論になったが、ヒトラーが間に入って、輸送能力にみあった計画を協力して作るよう指示した。7月中旬から8月の終わりまで、OKH、SKL、OKWの間で、激しい論争が続いたが、最終的に、輸送能力を考慮して妥協して決まったのが、8月30日版のアシカ作戦案である。
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