位置と歴史
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酒田港は山形県内を縦断する一級河川である最上川の河口に位置する。港は藤原秀衡の妹とも後室とも言われる徳尼公(とくにこう)が酒田に落ち延びた際に、随伴した家臣36人により開かれたと言われる。その時の家臣が「酒田三十六人衆」と呼ばれ、子孫らは後に酒田を代表する大商人になった。 万治2年(1659年)に出羽国村山郡の幕領米の輸送を請け負った江戸の商人正木半左衛門らにより西廻り航路が開かれ、酒田港は西廻り航路の起点となった。最上川の舟運より運ばれた紅花や米、各地の特産物が北前船に積まれ、日本海から瀬戸内海を廻って、大坂、さらには江戸に運ばれた。 「西の堺、東の酒田」と呼ばれ、「酒田三十六人衆」でもある鐙屋(あぶみや)や本間家は大商人になった。中でも本間家は戦前までは日本一の大地主としても知られており、『本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に』と謳われるほどの財力を誇った。最も権勢を誇った本間光丘は、日枝神社の創建や庄内砂丘に防砂林を植林するなど、今日の酒田の基礎を作った。 明治期に入り、日本初の木造灯台である酒田灯台が作られるなど、発展を続けたが、大正初期に羽越本線が開通したことにより、輸送の主力は鉄道に取って代わられた。 戦後、国際港湾に指定され、主にソ連から北洋材を輸入していたが、最上川の河口に位置するため次第に手狭になり、1974年(昭和49年)11月に、大型船舶への対応や港の国際化さらに企業誘致を目的として、宮海地区の砂浜を埋め立てて酒田北港が開港した。しかし、臨海工業地区に誘致した住軽アルミニウム工業(住軽アルミ)がオイルショックなどの影響で操業から僅か5年で撤退するなど不遇が続いた。 1992年(平成4年)5月には酒田港からアムール川を遡って中国黒竜江省ハルビンに到るユニークな国際航路「東方水上シルクロード」を開設。専用船「木蘭」により中国東北部から穀物を輸入している。さらに1995年(平成7年)には、韓国釜山とのコンテナ航路も開かれ順調に取り扱いが増加している。 2003年(平成15年)、リサイクルポートの一つに指定され、リサイクル工場の集積を図り、循環型社会の拠点にすべく注力を始める。 2014年(平成26年)4月、花王が大浜地区に立地する酒田工場に新設した紙おむつ製造工場がフル生産を続け、国際コンテナ取扱量が急増したことなどを踏まえ、県が進めた高砂埠頭のコンテナヤードを1.3倍に拡張する工事が完了し、2016年(平成28年)11月から供用を開始。さらに国と県によるコンテナ船の2隻同時着岸を可能とするための高砂埠頭の岸壁延伸とコンテナヤード拡張の工事も完了し、2020年(令和2年)8月29日から供用が始まった。
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位置と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 20:20 UTC 版)
中環の西、西営盤の東に位置し、北にビクトリア・ハーバー、南に高級住宅街半山区と接する。 上環は、「四環九約」といわれる1842年植民地化当時から、英国人入植者が集住した地域の一部であり、 クイーンズロード・セントラル(皇后大道中)とハリウッドロードの間の水坑口街(ポゼッション・ストリート)から市街化が始まった。水坑口街は当時海岸部にあったが、埋め立ての結果、現在、海岸部から少し離れている。1980年代までは、埠頭付近にはナイトマーケット、ハリウッド公園付近には大規模な屋台群が出て、プアマンズナイトクラブ(平民夜總會)と呼ばれたが、返還後急速に大型ビルが建設されるなどビジネス街化が進んでいる。
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