仏法派と英法派の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
民商両法典の争議において、英法派の法律家は大半延期派、仏法派は概ね断行派に属していたから、論争は仏法派と英法派の争いという一面を有していた。 明法寮…に次いで帝国大学の前身たる東京開成学校では、明治7年からイギリス法の教授を始めることとなった。これがそもそも我邦の法学者が二派に分れる端緒である。その後ち司法省の学校は、明治17年に文部省の管轄となって一時東京法学校と称したが、翌年に東京大学の法学部に合併されてフランス法学部となった。明治19年に帝国大学令が発布せられ、翌年法科大学にドイツ法科も設けられた。…民間にもまた一方にはイギリス法律を主とする東京法学院…東京専門学校…等があり、また一方にはフランス法を教授する明治法律学校…和仏法律学校…等があって、互に対峙して各多数の卒業生を出しておった。当時…ドイツ法律家はまだ極めて少数であったから…我邦の法律家は英仏の二大派に分れておったのである。かくの如き有様のところへフランス人の編纂した民法とドイツ人の編纂した商法とが発布せられ、しかも商法の如きは千有余条の大法典でありながら、公布後僅に8箇月にして、法律に慣れざる我商業者に…実施しようとしたのであるから…一騒動の起るのは固より当然の事であった。 — 穂積陳重「法典実施延期戦」『法窓夜話』97話 ただし、仏法派の黒川誠一郎は開成学校、磯部・梅・本野一郎は東京専門学校でも教鞭を取り、英法派の岡村・山田も明治法律学校や和仏法律学校で講義を行っていた側面がある。 上の私学四校に専修学校または日本法律学校を加えて、五大法律学校と称されている。後者は箕作麟祥・穂積八束など関係者に両派混在し断行派寄り中立派(日本法律学校#創立に関わった人物参照)。日本の法律を教える建前であった。現日本大学。 其の断行派の本拠が和仏法律学校でなしに、明治法律学校であったと云ふのには、特別な理由があると思ひます。 — 平野義太郎 それは明治法律学校にはフランス法を修めた人が大部分行って教鞭を取って居たからです。東京法学校の主催者中富井さんは延期論者で、梅さんは断行論者であったから東京法学校は学校として活動していません。 — 仁井田益太郎 (※私立東京法学校は和仏法律学校の前身) 断行派の中心人物は誰ですか。今伝わって居るのは梅先生のやうになって居りますが。 — 穂積重遠 私共の観る所では仏法出の岸本辰雄と云ふ人等が主宰し教鞭をとってゐた明治法律学校が主力であった。梅さんは東京法学校の方で、此の方は学校としても元々大した活動はしないのですから、梅さんはあまり背景は無いと思ふ。明治法律学校は全体として断行論を唱へておった。 — 仁井田 …英吉利法律学校の方ではどんな人人でしたか。 — 穂積重遠 それは江木衷とか山田喜之助、松野貞一郎、奥田義人…。 — 仁井田 …穂積八束なんかがどう云ふ理由で加ったのでせうか。例の「民法出でて忠孝亡ぶ」とまで反対した…。 — 穂積重遠 (※穂積重遠は陳重の子、八束の甥) 穂積八束さんに就ては余り知りません。同氏個人の考へに依ることと思ひますが、英吉利法律学校に教鞭を採って居た人々との関係もあったと想像します。 — 仁井田益太郎「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」 学友花井君法学新報の発刊に際し僕に寄稿を望む。…林に入れば木を看て林を看ず。民法家或は民法の条項を見て民法を看ざるの歎なきを保せんや。局外者の見亦排斥すべからざるなり。 — 穂積八束「国家的民法」『法学新報』1号
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