仏法導入の歴史的経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
明治初期の仏法摂取は、江戸幕府の置き土産である。 1858年(安政5年)、米・露・蘭・英・仏との間で、列強の軍事力を背景に関税自主権放棄と治外法権の不平等規定を含む安政五カ国条約締結。以後も西洋諸国と類似の条約を締結。 1862年(文久2年)、幕府はオランダに津田真道、西周を派遣、西洋法への関心が高まる。津田は「民法」の訳語の創始者。民法典論争では延期派。 1867年、ポルトガル王国民法典公布。仏法系だがオランダ民法(1829年)・イタリア民法(1865年)に比べ独自規定が増加。 同年(慶応3年)2月、フランス(第二帝政)の援助を頼みとする幕府は、パリ万国博覧会に徳川昭武、箕作麟祥らを派遣。この時、迅速な裁判を目にした外国奉行の栗本鋤雲によって、儒教的な聖賢の道に通じるとしてナポレオン五法典が高く評価され(『論語』顔淵第12、『大学』第2章4の句)、翻訳が計画されていたことが1869年(明治2年)出版の『暁窓追録』で明らかにされており、明治政府にも影響を与えた。ただし、そのまま日本に適用することの不可が指摘されている。なお、後に養子の栗本貞次郎によって民法の注釈書が翻訳された。 1869年(明治2年)、維新政府は、箕作にフランス五法典の翻訳を命じた。
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