人気の低下と分裂 (1986年-1997年)
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「キンクス」の記事における「人気の低下と分裂 (1986年-1997年)」の解説
1986年の初めに、バンドはアメリカのMCAレコードおよびイギリスのロンドン・レコードと契約した。その年の後半にリリースされた新レーベルでの最初のアルバム、『シンク・ヴィジュアル』は中程度の成功を収め、ビルボードのアルバムチャート最高81位を記録した。バラード「ロスト・アンド・ファウンド」や「ワーキング・アット・ザ・ファクトリー」のような曲は、組立ラインに並ぶブルーカラーの生活に関するものであったが、「シンク・ヴィジュアル」はバンドが10年にわたって利益を得てきたMTVビデオへの攻撃であった。1987年にはライヴアルバム『ザ・ロード』を発表したが、商業的には平凡な売り上げで、高評価は得られなかった。1989年には『UK ジャイヴ』を発表したが、商業的に失敗し、チャートは122位を記録しただけであった。MCAレコードは契約を解除し、キンクスは四半世紀ぶりにメジャーレーベルに所属しないこととなった。長年在籍していたキーボード奏者のイアン・ギボンズがグループを去り、マーク・ヘイリーが加入した。 1990年、キンクスはロックの殿堂に資格を得たその年に入ることとなった。ミック・エイヴォリーとピート・クウェイフが授賞式に出席した。しかし、殿堂入りがキンクスの失速したキャリアを復活させることは無かった。MCA時代のコンピレーション、『ロスト・アンド・ファウンド (1986-1989)』が契約上の義務を果たすために1991年にリリースされ、MCAとの関係は正式に修了した。バンドはその後、コロムビア・レコードと契約し、1991年に5曲入りのEP『ディドゥ・ヤ』をリリースした。本作には1968年のヒット曲「デイズ」の再演が収録されたが、チャート入りすることは無かった。 4ピースのバンドに戻ったキンクスのコロムビアでの最初のアルバム『フォビア』は1993年にリリースされた。ロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートは満員となったが、マーク・ヘイリーがバンドを離れ、アメリカツアーの前にイアン・ギボンズが再加入した。『フォビア』は、アメリカのビルボードチャートに1週間だけ留まり、最高位は166位であった。それまでにバンドにとって普通になったように、イギリスでは印象に残らなかった。シングル「オンリー・ア・ドリーム」は、イギリスではチャートにわずかに届かなかった。「スカッタード」はシングルとしてのリリースが発表され、テレビやラジオでプロモーションが行われたが、レコード店では販売されなかった。数ヶ月後にコレクター市場に少数が流通した。キンクスは1994年にコロムビアとの契約が終了した。バンドは同年、イギリスで自身のコンク・レーベルから『トゥ・ザ・ボーン』をリリースした。このアコースティックライヴを収録したアルバムは1993年と1994年の大成功を収めたイギリスツアーで一部が録音され、一部はコンク・スタジオで、少数の招待された聴衆の前で録音された。2年後、バンドはアメリカで同名の拡大版2枚組アルバムをリリースした。この2枚組アルバムはスタジオ録音の新曲「アニマル」と「トゥ・ザ・ボーン」が収められた。このほかにも、バンドの過去のヒット曲が多数含まれた。本作は好意的な評価を得たが、アメリカでもイギリスでもチャートインすることはできなかった。 バンドのプロフィールは、主に「ブリットポップ」ブームの結果として、1990年代半ばに大幅に上昇した。多くの有名なバンドが、キンクスから大きな影響を受けたと語った。そのような称賛があったにもかかわらず、グループの商業的な可能性は低下し続けた。彼らの活動は縮小し、レイとデイヴは自らの利益を追求するようになった。それぞれが自伝を発表した。レイの「X-Ray」は1995年の初めに出版され、デイズの回想録「Kink」は1年後に出版された。キンクスは1996年半ばに最後の公演を行い、デイヴの50歳の誕生日のパーティーで最後に一緒になるために集まった。キンクスの年代史家で歴史家のダグ・ヒンマンは、次のように述べている。「イベントの象徴性は見逃せなかった。 パーティーは、ロンドン北部のフォーティス・グリーンにある子供の頃の家の向かいにある、兄弟の最初の音楽活動の場所であるクリソルド・アームズ・パブで開催された。」
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