人気の定着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 01:47 UTC 版)
1913年(大正2年)には臨時増刊「浪花節十八番」を出して好評となるが、講釈師たちが浪花節語りと同列にされることに反発したのと、速記による講談落語を供給していた今村次郎が講談社に独占権を求めるのと浪花節掲載を見合わせることを申し入れたのを断られたことで、今村は『講談世界』上で講談社攻撃を行う。それに対して『講談倶楽部』では、書き講談を「新講談」と称して掲載、これがかえって読者に支持されるようになり、紙面から速記講談を一掃する。この新講談の書き手には、それまでの半井桃水、稲岡奴之助、行友李風、大谷内越山などに、今村次郎に同調しない伊藤痴遊、細川風谷、坂本富岳らの講釈師グループ、小説家の江見水蔭、須藤南翠、本田美禅、山野芋作(長谷川伸)などが加わることになった。同年秋の臨時増刊号の「新講談を勃興させよ」という特集には、福本日南、正宗白鳥、岡本綺堂、巖谷小波らも寄稿した。これが大衆文芸がマスメディア化していく端緒となる。 その後1914年から大々的に懸賞募集を行い、吉川英治が入選してデビューし、販売部数も増えて翌年には2万部となり、姉妹誌『面白倶楽部』も創刊した。1917年頃には新講談と家庭読物が人気を集め、佐藤紅緑らの長篇小説が注目され、流行作家だった前田曙山の時代小説「雪子の御方」(1914年夏期増刊号)はそれまでの勇壮な講談とは違い、艶やかさが満ちて特に人気を集めた。1915年には渡辺霞亭の悲恋もの「千鳥ヶ淵」連載も人気となり、続いて第一次世界大戦による好景気の影響もあって売れ行きは飛躍的に増加していく。 1922年には当時新潮社の記者だった中村武羅夫「夜の潮」(藤沢章人名義)、1923年には大家長田幹彦「波のうへ」を連載した。またこの頃は、小栗風葉やその門下の岡本霊華、真山青果に中村と、一門総出で誌面を飾っていた。1924年には15万部ほどになる。
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