人気の下落と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 04:16 UTC 版)
モードはエドワーディアンのセックス・シンボル的存在として、一世を風靡した。その後、彼女はアメリカとアジアでも踊った。アジアでは「白人の女性が現地人の観客の前で踊りを披露した」という理由でトラブルになった。アジアからアメリカに戻ったモードは、『サロメの幻影』の一部を取り入れた映画『敷物作りの娘』(en:The Rug Maker's Daughter、1915年)の制作に関わっている。その後モードはロンドンに戻った。 やがて第一次世界大戦の勃発などの時代の変化によって、彼女の人気は下落した。1918年には、彼女の名声を手ひどく毀損する中傷に対する訴訟に関わることになった。この年、J・T・グレイン (en) というインプレサリオがワイルドの『サロメ』上演を企画した。この公演は貸しホールでのプライベートな上演であり、モードはタイトル・ロールのサロメを演じることになった。 しかし、この公演についてクレームをつける者がいた。同年2月2日、国会議員ノエル・ペンバートン・ビリング (en) は記事「クリトリスのカルト(The Cult of the Clitoris)」を彼自身の雑誌「ヴィジランテ」(Vigilante)で発表した。ピリングは扇動的な政治家で、反ドイツの立場からさまざまなドイツ陰謀説をハロルド・スペンサーというライターに書かせていた。 「クリトリスのカルト」という言葉は、暗にモードのことを意味していた。この記事においてビリングは、ワイルドの『サロメ』は不道徳な上に、イギリスを堕落させようと企てるドイツの陰謀であると主張した。ワイルドは「頽廃派の首領」であり、モードはその作品を利用してイギリス人を誘惑したため、彼女の公演を鑑賞した人々の氏名がドイツの所有する黒書に記載されていると告発された。「性的逸脱」のために脅迫を受ける可能性があるとされたその人数は47,000人にのぼり、著名人の名も多く含まれていた。 モードはビリングを名誉毀損で訴えた。この訴訟は、マーゴ・アスキス(英語版) (ハーバート・ヘンリー・アスキスの妻)やアルフレッド・ダグラス(ワイルドの元恋人)などの著名人が関与したために世間の耳目を集めることになった。訴訟の間に、兄セオドアが起こした事件のことが掘り起こされた。セオドアのことは、彼女の家族に性的狂気の背景があったことを示唆するために引用された。ダグラスもモードに不利な証言を行い、結局ビリングは無罪となった。 このスキャンダルによって、モードの経歴は大きな打撃を受けた。モードはその後1934年まで世界各国で踊りを続けるが、かつての名声を取り戻すことはできなかった。1928年から1940年まで、モードはイギリスで自身の学校を開いて踊りを教えたが、彼女の芸術を受け継ぐ存在は現れなかった。彼女は秘書で恋人のヴェルナ・アルドリッチと一緒に暮らし、1956年にロサンゼルスで死去した。
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