交流のはじまりとは? わかりやすく解説

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交流のはじまり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 03:37 UTC 版)

日本とデンマークの関係」の記事における「交流のはじまり」の解説

日本デンマーク接触始まったのは、デンマーク東インド会社設立され1600年代初頭とされる1867年日丁修好通商航海条約締結徳川幕府外国結んだ最後条約)。1871年明治4年)、不平等条約改正交渉のため渡航した岩倉使節団デンマーク5日滞在し1873年4月19日にはクリスチャン9世 (デンマーク王)謁見帰国後、使節紀行纂輯専務心得久米邦武は『特命全権大使米欧回覧実記』(1878年)の中に「嗹馬国ノ記」の一章を設けてデンマーク紹介。1895(明治2810月19日1867年条約改正した日本・デンマーク通商航海条約コペンハーゲン調印され、その翌年批准公布(日本側の全権赤羽四郎デンマーク側はレーツス・トウト)。 民間では1866年来日したデンマーク人商人フレデリック・クレブス(Otto Frederick Krebs, 1838-191)が、1874年炭鉱採掘技師として三菱に入社し、のちに幹部にまで出世した1892年から森鷗外アンデルセンの『即興詩人』の邦訳断続的に発表し1902年単行本として刊行典雅な美文ロングセラーとなった1900年にはヴァルデマー (デンマーク王子)来日デンマーク農事改良についてはたびたび紹介され定評があり、 1908年には、衰退した養鶏業共同経営復興させた広島県のあるが「小丁抹(小デンマーク丁抹デンマーク漢字表記)」と呼ばれて称賛された。 1911年(明治44年)に内村鑑三が『デンマルク国の話:信仰樹木を以て国を救ひし話』を講演しエンリコ・ダルガス植林事業優れた施策として紹介1912年には、植民地統治にあたっていた台湾総督府技師東郷実デンマーク農業改革高く評価し丁抹農業論』を著し、翌1913年には、デンマークニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィ教育事業触れたドイツのホルマン(Anton Heinrich Hollmann)による『国民高等学校農民文明』(那須皓訳)が刊行されるなど、プロシアとの戦争敗れて疲弊した国を農業改革教育再興させたデンマーク試み日本農本思想家たちの共感呼んだ。 1923(大正12)年にはエミール・フェンガ一家模範農家として北海道庁招かれ5年滞在してデンマーク式酪農指導。1926(大正15)年には、デンマークのボトヴェ陸軍飛行大尉(1895-1964)と陸軍二等技師のオールセン少尉世界で初め飛行機コペンハーゲン東京間を往復同年デンマークの教育機関フォルケホイスコーレ参考に、加藤完治日本国民高等学校を、1936年には松前重義東海大学母体となる私塾開設するなど、デンマーク農業教育理想の国というイメージ定着していった。

※この「交流のはじまり」の解説は、「日本とデンマークの関係」の解説の一部です。
「交流のはじまり」を含む「日本とデンマークの関係」の記事については、「日本とデンマークの関係」の概要を参照ください。

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