交流のはじまり
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「日本とデンマークの関係」の記事における「交流のはじまり」の解説
日本とデンマークの接触が始まったのは、デンマーク東インド会社が設立された1600年代初頭とされる。1867年日丁修好通商航海条約締結(徳川幕府が外国と結んだ最後の条約)。1871年(明治4年)、不平等条約改正交渉のため渡航した岩倉使節団はデンマークに5日間滞在し、1873年4月19日にはクリスチャン9世 (デンマーク王)に謁見、帰国後、使節紀行纂輯専務心得の久米邦武は『特命全権大使米欧回覧実記』(1878年)の中に「嗹馬国ノ記」の一章を設けてデンマークを紹介。1895(明治28)10月19日、1867年の条約を改正した日本・デンマーク通商航海条約がコペンハーゲンで調印され、その翌年に批准・公布(日本側の全権は赤羽四郎、デンマーク側はレーツス・トウト)。 民間では1866年に来日したデンマーク人商人フレデリック・クレブス(Otto Frederick Krebs, 1838-191)が、1874年に炭鉱採掘技師として三菱に入社し、のちに幹部にまで出世した。1892年から森鷗外がアンデルセンの『即興詩人』の邦訳を断続的に発表し、1902年に単行本として刊行、典雅な美文でロングセラーとなった。1900年にはヴァルデマー (デンマーク王子)が来日。デンマークの農事改良についてはたびたび紹介されて定評があり、 1908年には、衰退した養鶏業を共同経営で復興させた広島県のある村が「小丁抹(小デンマーク。丁抹はデンマークの漢字表記)」と呼ばれて称賛された。 1911年(明治44年)に内村鑑三が『デンマルク国の話:信仰と樹木とを以て国を救ひし話』を講演し、エンリコ・ダルガスの植林事業を優れた施策として紹介。1912年には、植民地統治にあたっていた台湾総督府技師の東郷実がデンマークの農業改革を高く評価し『丁抹農業論』を著し、翌1913年には、デンマークのニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィの教育事業に触れたドイツのホルマン(Anton Heinrich Hollmann)による『国民高等学校と農民文明』(那須皓訳)が刊行されるなど、プロシアとの戦争に敗れて疲弊した国を農業改革や教育で再興させたデンマークの試みは日本の農本思想家たちの共感を呼んだ。 1923(大正12)年にはエミール・フェンガ一家が模範農家として北海道庁に招かれ、5年間滞在してデンマーク式酪農を指導。1926(大正15)年には、デンマークのボトヴェ陸軍飛行大尉(1895-1964)と陸軍二等技師のオールセン少尉が世界で初めて飛行機でコペンハーゲン-東京間を往復。同年、デンマークの教育機関フォルケホイスコーレを参考に、加藤完治が日本国民高等学校を、1936年には松前重義が東海大学の母体となる私塾を開設するなど、デンマークは農業と教育の理想の国というイメージが定着していった。
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