交修図書室・図書館(1876-1928)
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1876年(明治9年)、明治維新による新政に適した知識を学び、演説・討論の練習の場とすべく、「交修社」が結成された。発足当初の交修社は、社員が集まって話し合いを行う程度の活動だったが、1882年(明治15年)になると村井恒蔵らが機関紙『志摩雑誌』を発行し、社員は豊川学校(伊勢市立厚生小学校の前身校の1校)に毎日集まって15時から22時まで読書を行い、知識を交換し討論を交わすようになった。交修社は社員が持ち寄った本と交修社で購入した本を合わせて約960冊を所蔵し、1882年(明治15年)4月3日に「交修図書室」の設立式を行い、大世古町の小川稠吉宅を仮閲覧所とした。交修図書室の利用は社員に限られていたものの、図書の閲覧と貸し出し業務を行っており、三重県における図書館設立の先駆的な取り組みとなった。 交修社の活動は1887年(明治20年)頃には低調となっていた。一方、度会郡教育会第一支会では1904年(明治37年)に日露戦争記念に図書館を開設しようという計画が浮上し、交修社に対して図書の寄贈を申し入れた。交修社はこれを容認し、483部962冊の図書を寄贈した。1905年(明治38年)4月3日に開館式を厚生尋常小学校(現・伊勢市立厚生小学校)で挙行し、度会郡教育会第一支会の運営による交修図書館として、一般市民の利用も可能とした。交修図書館の設立は、同年1月に開館した阿山郡教育会附属図書館(現・伊賀市上野図書館)に次ぐ三重県内で2番目であった。施設は小川稠吉宅をそのまま使用した。1906年(明治39年)に宇治山田が市制施行したのに合わせて運営者の度会郡教育会第一支会が宇治山田市教育会に改称し、1908年(明治41年)9月に豊川町の宇治山田市立男子高等小学校へ移転した。交修図書館は貸し出し担当者のみ俸給が支払われ、他の業務は教育会の会員が無償奉仕で従事した。貴重書は特別閲覧人のみ閲覧を許し、抜粋・謄写は許可しなかった。また大正時代には理容所に本をおいてもらう「床屋文庫」を展開し、市民の利便性を高める活動を行った。 高等小学校は1921年(大正10年)3月に廃校となったため、交修図書館は暫定的に宇治山田市第六尋常高等小学校(現・伊勢市立明倫小学校)へ移転した。この頃より独立した建物を持つ図書館を設置しようとする運動が宇治山田市教育会や黎明会(宇治山田市の将来を見据え、調査・研究・広報を行った団体)の松葉憲太郎らによって展開された。彼らは市議会議員を通して市長に働きかけ、宇治山田市は神都公会堂と図書館を建設する計画を進めることとなった。宇治山田市は常磐町にあった御師の橋村肥前太夫邸の一部、専売局宇治山田出張所を買収し、岩渕町へ移築することに決めたのであった。
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