互換性部品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 01:39 UTC 版)
「イーライ・ホイットニー」の記事における「互換性部品」の解説
ホイットニーはマスケット銃の製造に互換性部品を長年追求していたが、互換性部品のアイデアの発明者ではない。ホイットニー以前から互換性部品のアイデアはあり、ホイットニーは単にそれを推進し普及させただけである。 部品の互換性を確保しようとする試みはポエニ戦争の時代にまで遡ることができ、船などの考古学的遺物や当時の記録でそれが判明している[要出典]。近代においては、数十年かけて複数の人々がその考え方を発展させてきた。初期の人物としては、18世紀フランスの砲兵士官ジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバルが大砲の部品製造の規格化を行ったが、これはまだ真の互換性部品と言えるレベルではなかった。これに触発されてさらにアイデアを進化させたのがオノレ・ブランやルイ・ド・トザール(英語版)である。ニューイングランドでもホイットニー以前に John H. Hall や Simeon North が部品の互換性確保に成功している。ホイットニーの工場で互換性確保に成功したのは彼の死後、1825年のことである。 1790年代後半、ホイットニーは綿繰り機の訴訟で債務を抱え破産寸前だった。1798年、マスケット銃生産の契約を請け負ったのも金のためだった。ニューヘイブンの綿繰り機工場が全焼し、さらに借金を抱えることになった。そのころフランス革命により、フランスとイギリスとアメリカの関係はきな臭くなっていた。アメリカ新政府は戦争の準備が必要と認識し、再軍備を開始。陸軍省は1万丁のマスケット銃の生産を委託することにした。ホイットニーはそれまで銃を作ったことがなかったが、1798年1月、1万から1万5千丁のマスケット銃を1800年に納入する契約を獲得した。この時点では互換性部品には言及してない。10カ月後、財務長官オリヴァー・ウォルコットがオノレ・ブランの報告書と思われる海外の兵器製造技術に関する小冊子をホイットニーに送っており、ホイットニーが互換性部品について語り始めるのはその後のことである。 1798年5月、アメリカ議会はフランスとの戦争勃発に備え、小火器と大砲の代金として80万ドルの予算を議決した。さらに精密な武器を製造できる者には、まず5,000ドルを与え、それが尽きたらさらに5,000ドルを与えるとした。借金を抱えていたホイットニーはこの契約を請け負った。契約は1年間だったが、彼は様々な理由をつけて1809年まで銃を納入しなかった。近年の研究により、ホイットニーが1801年から1806年までサウスカロライナに赴いて綿繰り機で利益を上げようとしていたことが判明している。 ホイットニーは、部品ごとに専門化された単能工作機械を作るとともに、フランスのオノレ・ブランが考案した限界ゲージを実用化し、公差が均一な製品を作れるように、加工の標準化を図った。これにより、互換性部品の大量生産を可能にした。当時の生産体系は、加工技術者の腕に頼る、一品一様の現合作業によるもので、部品の互換性は殆ど無い状態だった。 1801年、ホイットニーは軍関係者の前で、完成した複数の銃をばらし、その中から任意に取り出した部品により、再び銃をくみ上げるデモンストレーションを行い、驚かせた。しかし歴史家 Merritt Roe Smith によれば、このデモンストレーションは軍と契約した銃の納期が大幅に遅れていることに対して好印象を与えようとしたもので、政府が騙されたのだという。それによりホイットニーはより多くの時間と資金を得ることに成功したが、互換性部品の開発には直結しなかった。 政府はホイットニーの生産したマスケット銃の価格が政府の工場よりも高いことを問題にしたが、ホイットニーは保険や工作機械といった固定費用を含めた原価計算結果を示してみせた。したがって、原価計算や効率性といった概念の確立に貢献したとも言える。
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