部品の標準化:フォード主義への対抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 05:16 UTC 版)
「SAE International」の記事における「部品の標準化:フォード主義への対抗」の解説
SAEはT型フォードでの大量生産を行うために一企業だけでの標準化と互換性部品生産を徹底的に推進していたフォード社とは対照的な存在である。また、1907年から1910年までつづいた不況の背景もあった。 フォードは、1908年からのT型フォードにおいて、徹底した生産管理手法を用いて車両の標準化を図った。これは業界とは関係なくフォード社内において閉じた世界での標準化であった。この結果、T型フォードは量産効果とともに低価格で市場に販売され、米国でのモータリゼーションへとつながっていく。1910年初頭では2割のシェアでゼネラルモーターズ (GM) とほぼ同等であったのが、1910年代半ばにはフォードは4割、GMは1割、となってしまう。他社はそのほかを取り合っていた。フォード社は部品だけでなく、良質な鉄を作る工場まで自社で抱えたほどの徹底した自社生産をおこなった。一方、その他の自動車メーカーは、不況期になり、自社が依存している部品メーカーが倒産するようになると、自動車メーカーは他の部品メーカーでの部品で代替することができなかった。部品が標準化されていなかったためである。 1910年、ハワード・E・コフィン (ハドソン自動車副社長) が標準化を呼びかける。すでに役割を終えていたALAMから1912年、技術部がSAEに合流する。ALAMにいたコッカー・F・クラークソン (Cocker F. Clarkson)、ヘンリー・サウザー (Henry Souther) は、SAEで標準化委員会を設置。この時点ではメーカーはGM、ハドソンのみで、他は中小自動車メーカーもしくは部品メーカーだった。それでも、標準化委員会ではさまざまな部品の種類とサイズを規定した。たとえば、パイプは優に1000を超える部品が使用されていたが委員会によりサイズで17種、厚みで13種と規定された。 1910年時、米国では、現在の日本と同様、右ハンドル車がほとんどであった。10年間でこれは入れ替わり、米国は左ハンドルの自動車の国となる。ちょうど入れ替わった年は1913年であった。
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