二月革命・ロシアへの帰国と四月テーゼの発表
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「ウラジーミル・レーニン」の記事における「二月革命・ロシアへの帰国と四月テーゼの発表」の解説
1917年2月、二月革命が首都ペトログラード(開戦時にサンクトペテルブルクから改称された)で勃発し、ロシア皇帝ニコライ2世は退位した。権力を掌握した国家ドゥーマによってロシア臨時政府が樹立され、ロシア帝国は「ロシア共和国」へと改革された。スイスで二月革命について知らされたレーニンは、他の反体制活動家らと共に革命の発生を祝った。レーニンはボリシェヴィキを指導するためロシアに帰国する意思を固めたが、戦争によりほとんどの帰国ルートは封鎖されており、唯一の方法はドイツ帝国の国土を通過することだった。ドイツ政府はレーニンのような反体制分子は敵国ロシアに混乱をもたらすと判断し、彼とその妻を含む32名のロシア人が封印列車(ロシア語版)に乗り込み、ドイツ領内を通過して母国へと向かうことを許可した。レーニンらの一行は封印列車でチューリヒからドイツのザスニッツ(英語版)に移動した後、スウェーデンを経由してヘルシンキへと向かい、そこからペトログラード行きの最後の列車に乗り込んだ。 1917年4月、ペトログラードのフィンリャンツキー駅に到着したレーニンは、ボリシェヴィキの支持者らに向けて演説を行い、ロシア臨時政府を厳しく批判すると共に、全ヨーロッパでのプロレタリア革命という主張を繰り返した。その後の数日間にはボリシェヴィキの諸会議に出席してメンシェヴィキとの融和を主張する党員を譴責すると共に、スイスからの旅の途中で書き上げた『四月テーゼ』を党の綱領案として発表した。レーニンは権勢あるペトログラード・ソビエト(英語版)を支配しているメンシェヴィキと社会革命党がロシア臨時政府に協力していることを非難し、両者を社会主義への裏切り者として糾弾した。そして、臨時政府はツァーリの政府と同程度に帝国主義的であると定義し、プロレタリア政権を樹立して社会主義社会へ向かうための手段として、ドイツおよびオーストリア=ハンガリーとの即時和平・ソビエトへの権力集中・産業と銀行の国有化・国家による土地収用などを提唱した。対照的に、メンシェヴィキはロシアがまだ社会主義社会に移行する段階に達していないと考えており、レーニンは誕生したばかりの新共和国を内戦へと導こうと試みていると批判した。 その後の数カ月間、レーニンは自らの綱領を広めるための運動に励み、ボリシェヴィキ中央委員会の諸会議に出席し、党機関紙 『プラウダ』に多く寄稿する一方で、労働者、兵士、農民、水兵からの支持を得るため、ペトログラードの街中で大衆に向けた演説を行った。特に、ソビエトへの権力集中の要求は「すべての権力をソビエトへ」のスローガンとともに喧伝された。のちにレーニンは、このスローガンが「我々によって広範な一般大衆の意識に植え付けられ」、十月革命におけるボリシェヴィキの勝利を容易にしたと述懐している。 1917年7月、ペトログラードで兵士たちによる反ロシア臨時政府の武装デモ (七月蜂起) が発生したが、その武装デモに関わるボリシェヴィキの求心力低下を狙った臨時政府は、「レーニンはドイツのスパイである」との情報を新聞社やペトログラード駐留部隊に対して流出させた。結果として、レーニンおよびボリシェヴィキの支持は急落し、武装デモに参加した部隊は臨時政府側の部隊に次々と武装解除され、武装デモは鎮圧された。臨時政府はレーニンと他のボリシェヴィキ幹部の逮捕令を発したが、レーニンは逮捕を逃れ、ペトログラード市内の多くの隠れ家を転々としつつ潜伏した。 臨時政府に殺害されることを恐れたレーニンとグリゴリー・ジノヴィエフは変装してペトログラードから逃走し、ラズリーフ湖(英語版)周辺に拠点を移した。レーニンは逃亡に成功したものの、臨時政府により多くのボリシェヴィキ幹部が逮捕され、ボリシェヴィキの勢力は一時的に大きく後退することになった。ラズリーフでレーニンはのちに『国家と革命』として出版される本の執筆を開始した。同書では自らの国家観を提示し、プロレタリア革命後の社会主義国家が発展することでいずれ国家が消滅し、純粋な共産主義社会を残すのみとなる過程について論じた。この頃、レーニンはボリシェヴィキが武装蜂起を起こして臨時政府を転覆することを主張し始めたが、秘密裏に開かれた党中央委員会でレーニンの提案は退けられた。その後、列車と徒歩でフィンランドに向かい、8月10日にはヘルシンキに到着し、当地ではボリシェヴィキ支持者が所有する隠れ家に潜伏した。
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